これからのツインレイ(男女)の幸福を手に入れる方法について(愛と心の定義)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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心による循環を起こすまでの天地反転までに至るまでの話。


ツインレイの男女は『男性』と『女性』により成立している。

どちらかが『道理』であるとき、どちらかが『正義』である。

しかし、ツインレイの片方は『心のある判断』をすることができる状態であるが、片方は『心のある判断』ができない状態だ。

いわば、ツインレイのふたりは『片方が心の所有者』であり『片方が心を持っていない』ような状態となっている。

 

ツインレイのふたりが『共有するもの』は、魂ではない。心である。そして愛なんだ。

あたいたちの心は『すべて同じ』だ。それは『日の心』なんだ。呼吸じゃないよ、心だ。

すべてにおいて、心の形は同じだから、あたいたちは心を使って繋がることができるようになる。

だけど、魂のなかにツインレイたちは『片方だけにしか心を入れてきていない』状態なんだ。だから、片方のツインレイは『バカをみる』状態となっている。

それは『ツインレイのふたりが離れ離れだから』でもあるんだ。

ツインレイのふたりが繋がっていれば、ツインレイのふたりは心ある存在となれる。

いわば、心の循環が生まれることになる。

従来のツインレイたちは、一方通行的に心を与え、しかし、心は社会へ放たれては自身のもとへ戻ってくることがなく、最終的に心を使い果して片方のメンタルが『悪』へと転じるような状態となる。

いわば、心の使い過ぎにより『悪』がうまれるような状態となるのだ。

あたいは、ここしばらく、心がなかった。彼くんに差し出していた。ずいぶん長く、心を明け渡している状態で、あたいのなかに心などなかった。あたいは『悪』だったのである。そもそも心があった行いもすべてにおいて『悪意』として認識されるような状態となった。

そして、ツインレイの相手にすべての心を差しだした存在は『愛』となったが、必ず『犠牲』が生まれ、あたいは他者犠牲と言う自己犠牲状態となった。

 

ツインレイとは、最終的に愛と犠牲による分離状態になり、ツインレイのふたりは必ず結ばれない状態となる。

第一サイレント期間に突入する段階で心を差しだす。そして、第二サイレント期間では愛を差しだす。

そして、片方は『悪』『愛』となり、片方は『心』『犠牲』の状態となっては、不幸の連鎖が生まれていたということだ。

 

そもそも理が悪い状態なので、致し方ない。

だけど、思い出してほしいんだ。

心を差しだした人は誰なのか。誰に対して愛を差しだしたのか。これが『ツインレイ』なんだ。

そして、心を差しだしてくれている人は誰で、誰が犠牲となってくれていたのか。それがツインレイなんだよ。

なんでツインレイと結ばれないのか。心と愛をシェアしていくことが出来ないからなんだ。

 

心という差しだすものがあれば、愛により受け取ることができる。

あたいたちは愛を差しだしては、心が泣いていた。

そもそも循環がおかしいのである。愛は差しだすものではない、心を受け取るものなのである。

 

自分に足りないものは何か——。ということか。

心が足りないのか、それとも心を受け取る愛が足りないのか。

それは『ツインレイがそばにいないから』ってことなんだ。

ツインレイはいつも心を与えてくれているから。そして、愛をもって受け取りたいと思っているけど、受け取ることが出来ないでいるから自滅していくのが従来のツインレイ。

人は愛するときに心が必要だ。そして、人から心を受け取るとき愛が必要。これを『ツインレイの循環』としたい。

 

しかし、人は俗世にまみれ、正しさに溺れているような気がする。

それは精神にも及んでいるし、理論にも及んでいる。

きっと、あたいの理論に対して『正しい』とか『間違い』だとか思っている人もいるんだろうし、精神に対して『正しい』とか『間違い』だとか思っている人もいるんだろう。

別にあたいはどっちでもいいと思っているが、人は正しさを求めすぎているところがある。

ツインレイの理論に対しても、きっと多くの賛否両論を持っている。だからなんだと思っているのがあたいである。

どっちにしたって間違えている。本質はいつだってひとつしかない。その本質は『すべてが統合されたもの』であって、そのすべてが正しいという視点を持ってようやく統合的意識となる。

いわば、それは『心』である。心がなければ、すべてにおいて正しいという視点を持つことは出来ない。

心がなければ、人は『正しい』『間違い』のふたつに分けられてしまうんだってことなんだ。

 

そして、もうひとつの問題も生じている。

これは女性の持つ気質のなかで、大きな問題なんじゃないかと思っている。

女性は傷つきたくない。だから目の前の現実を直視しないところがある。

目の前に起きている問題が、いかなることなのか。その事実を直視することが出来ないから『人を信用する』ということや『愛しているから』っていうお奇麗な言葉で現実をなかったことにする。

現実とは『その心』である。ツインレイ女性の悪いところだと思っている。

心をなかったことにすれば、ツインレイのふたりの関係性がよくなると思っている。

心をなかったことにすればするほど、真相から遠のいていくのに、愛するとか、そんな言葉で逆転のことを行っている。

愛は『心を受け取るもの』であり『与えるもの』ではない。愛することができるのは神である。神は人に心を渡すことができるが、人が神の真似事などするもんじゃない。自滅するだけである。

心を与えられていないのであれば、それはツインレイではない。

そもそも、心がわからない状態なのであれば、心が死んでいる。心が死んでいるのは『傷ついていないから』である。

傷ついていない状態は自分の心に対しての否定を続けている状態だ。

 

『本当はどう思っているのか』。その本当の心を人に預け続けるとき、人は人を傷つける。

自分の心を持ち続けることが出来ないとき、人は他者に心を預けるために人を傷つける。

自分が傷ついている心を受け止められていないとき、他者を傷つけてしまうんだな。

 

まァ、そういうメカニズムなんだ。

他者を傷つけてしまうとき、周囲の人をどんどん不幸にしていってしまうね。

人の心を受け取ることが出来ないのは、自分の傷をなかったことにし続けているからである。

その傷をしっかりと受け止めていくことが重要であって、傷を背負うことによって人は『心』が生まれていくんだ。

図の説明:

図にて説明をしていこうと思う。

人は『自分で立つ』ということをしなければならない。

それは『自立』なんだが。なぜか多くの人が経済的自立をしなければならないとか、なんか頑張っている。

あたいは特に経済的自立なんていらないと思っていたし、そもそもあたいは経済的自立をしたくない人だから『自律しよ』って考えて、自分の人生はすべて背負うって形に着地した。

人は多く現実的側面を見てしまいやすく、精神的な部分で自立が出来ていないのがたいていなんじゃないかと思っている。

これは『自分が持っている傷はすべて自分で背負いますよ』っていうことなんだ。これが『自立』。心の自立なんだ。

人は自分が持っている心の傷をすべて背負うことが出来て、ようやく『心の自立』が出来るようになり、人として立つことができる。

このとき、ようやく、ツインレイはお互い自立する。

そして、心の自立がちゃんとできていれば『心』を理解することができる。

だって自分のなかに『傷つくことができる心』が存在しているから。傷つかない人はプライドが高いね。守らなきゃいけないのは心で、心を守っている限りプライドが高い。プライドが高い限りは、そこに心が繋がっていない状態だ。

 

そうすれば、自ずと『天』が出来上がる。

いわば『愛する』だなんてことしなくなる。心があれば、心を理解することができる。あたいたちは心だけあればいい。

心が理解することが出来れば、人は心を受け取る(愛)が出来るようになる。

 

すると循環が生まれるんだよ。

図の説明:ツインレイの男女による八の字の循環図

これがツインレイが持つ『八の字の循環』である。

すると、天地がひっくり返るよ。天が成立すれば、天は『転』になる。

図の説明:天地をひっくり返す

すると、龍が生まれる。

地盤には『心を受け取ること』が主体となっていく。

いわば、ツインレイたちは最終的に『心を与える』『愛する』ではなく、主体が『人の心を受け取ること』が重要になっていく。

だから「ありがとう」って言える世界なんだ。

このとき、人は龍を生み出し、肉体が循環していくことになる。それは心による循環だ。

 

あたいたちの世界は従来の世界とは『反転』している。そうやって『龍』を生み出していく。

理はいつだってジョークなんだよ。神は冗談が大好きなんだよ。心を豊かに笑って過ごすことは神の理に近づくことなんだ。

とりあえず笑っとけってのは、理はいつだって笑いの中にあるからなんだ。

笑って過ごせる世界のなかに、ツインレイはいる。だから、楽しく生きる世界線を探していきたい。

 

だから、先ずは傷つけよ。自分の心を取り戻せよ。

そうやって、人の心は取り戻される。自分の心を人に預けるなよ。

人に傷つけられたとき、自分の心のために泣けよ。人を傷つけるなよ。

人の傷を想えよ。その傷は自分の傷だよ。その傷を大事にしたらいいんだよ。

傷があるところに心があるよ。そこにある心を抱いて生きていけば、人は神に繋がるよ。

神は心だよ。傷そのものが神なんだよ。

神は『みんなの願い』により生まれている。願いはいつだってそこに傷があるから生まれてくる。神は傷ついた人の心によって生まれた存在なんだよ。

だから、傷を大事にしてくれなきゃ神には繋がれないよ。だから泣いたらいいんだよ、人の傷にも自分の傷にも、痛いと思うのであれば泣いたとき、私たちは神に繋がっていく。

神は雫だ。多くの人の涙により形成されている。その涙を受け取りたいと思っているのが神なんだよ。


神についても説明しようかと思ったんだが、一応そんなにいらんかなと思ったので、構造だけ。

図の説明:神による天地の繋がり

中心地が『愛(受け取る心)』として成立し、上には高天原とした。

人は天が最上だが、それは『夫』であればいいってこと。夫に手が届くならば、夫はそれ以上大きくなる必要性はない。必要なのは循環だから。

その上に『人』と『神』が成立する。これは『神人』と『人神』である。その間はやっぱり『心』が糸を引いている。

神も人もそうたいして変わらない、そこに心がある限り、神と人は常に繋がり続けている。

最上を『慈しむ』という文字を書き添えたが、もっとも慈しむとは『愛おしい』と思うことだ。愛おしいと思うのは『人である自分』である。人である自分を愛おしいと思うとき、私たちの天地はひっくり返ることになる。

図の説明:神人の成立による天地の反転

人である自分を『愛おしい』と思うとき、神人として成立する。神はそうやって『立つ』のである。

愛おしい感情が軸になるから、そりゃもうぐちゃぐちゃな愛情いっぱいになるよねって感じだ。それを軸にして上が成立していく。愛おしいからそりゃ頑張れる。

神と人の境目が神にはしんどい。それは『神と人は別の存在』であり、繋がれないっていう問題が神にはあった。

だから神は人に対して心を閉鎖的にする。自分と人は違うって思いがちなんだ。

だけど、心の窓を開けるには『愛おしい』っていう感情を再び思い起こすことにあるんじゃないかと思っている。

人である自分を愛おしく思い、人である自分を大事にすることは、他者を愛し、他者を大事にすることに繋がっている。

 

神に足りない感情は『愛されたい』っていう感情なんだ。神は人に愛されたい。

 

愛しているわけじゃないんだ。愛おしいんだ。愛おしいから頬が緩むんだよ。そして、それが『愛しているよ』に繋がっていく。

そのために先ずは人として『愛する』を完成させなければならない。

そのために『ツインフレーム』が存在している。このとき『愛する(いかなる心でも受け取る)』を完成させる。

次に『ツインレイ』が存在し、『愛おしい(いかなる存在であっても)』を完成される。

最後に人であることを取り戻す。『愛されたい自分』を取り戻していく。

ね、あたいたち、人であり神になれるよ。経験はすべて実になる。

 

んで、この構造にすると、上の問題が下に落ちてくる。上に生じる人の問題はすべて神が背負う。そのすべてを神は『愛おしいね』といって受け取ることになる。

この循環がすべて成立させていくために多くの問題が生じるが、この法則性に則るとき、すべてのことが安定的になる。

そのために、先ずは『人が成立』しなければならない。

あたいの場合、あたいの人の部分を有しているお日奈さまの問題である。その部分が成立してようやくあたいは人を慈しむことができる。(ひらたくすると、あたいが神になって世からいなくなればバイパス必要だよね、それどーするの? って感じの問題を今解消し続けている。)

循環しているのは常に『心』である。あたいの世は心を育む葦原の世である。

図の説明:天から地に関する循環

天地の循環がこれにて成立する。

いわば、天にいる神は、常に人の世である上にある願いを受け取ってその願いを慈しみ、受け取るっていう構造をとり、新しい神をうみだしている。

神が願いを叶えるとは、このような構造である。いつだって地に存在する龍は天へ願いを届けている。人は願わなくなった、自分の心に。その心を取り戻せば、ちゃんと神はこたえる。慈しみを持って受け取る。

そこに心があるのであれば、その心は神が持つ心と同じである。

もし、神になりたいと思う人あらば、そのとき、その心に素直になることである。それは頭ではない、胸で素直になることだ。

痛いことに対し、痛いと思うこと。その胸の痛みをしっかりと感じ、胸にじんわりと通していくこと。

ただ感じればいいだけのことを頭で捉えては尚、正しいだの間違いだの人は審判を下す。

どれも正しいよ、神からすればね。神はその間違いだと言われている心を肯定している。いつだって人は正しいよ。だけど、神を通じてくれないことにはその心に報いることが出来ないでいる。

それを神はさびしいと思っている。神を想うのであれば、外に願うんじゃなくてただ心を手に取ってほしい。

神を否定することは、その心を否定することだ。多くの想いを抱く感情をなかったことにしないでほしい、神をなかったことになどしてほしくない。

判断をしないでほしい、ただ、心だけで受け取ってほしい。それを神は受け取る構造がもう成立している。