ツインレイの相手のなかに『天使』を信じるのか『悪魔』を信じるのか、それとも『現実』を信じるのか。(ツインレイ殺し)

2024年10月3日

| Ⓒ なとり

sponsor link

ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

kindleの読み放題Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題


教育論のカテゴリにも入れておきました。

今までも自分の人生で苦悩してきたのだが、今は親のことで苦悩しているような気がしている。

私は、親に悪意を信じられ、そこに善意を信じてもらえなかったことが多々ある。そこにある心や善意を信じてもらえず、悪意に変換して解釈され、今も傷つくことが多々ある。

ツインレイの相手にも通じることだし、子供相手にも通じること。というか、人間関係一般に通じること。

 

私たちは人を通して自分のなかにある『意識』を見る。つまり、善意しか育っていない人は、相手のなかに善意しか見えない。悪意しか育っていない人は悪意しか見えない。

しかしこれには少々語弊がある。善意が悪意に見えて、悪意が善意に見える。これは自分自身のなかで勝手に「相手は悪い人間だ」と思い込み、「相手は善い人間だ」と思い込んでいるところにある。

たいてい、現実をちゃんとみていない。現実的にちゃんと相手を見ていれば、悪意を持って行動しているのか。それとも善意を持って行動しているのかがわかる。

だけれど、それがよくわからない世界観に入ることがある。これが幻想世界とも言える。

悪意を善意に変換して理解しなければ生きていけなかった(勝手に相手の善性を思い込むことで今を乗り切る)。善意を悪意に変換されて親に理解され、悪意ある存在であることを信じられた。

このふたつが揃うと、ひっくり返った幻想世界へ陥ることになる。

 

たいてい『信じる』とは、悪意を善意に変換して『そこにない善意を信じる』ことにもなる。

ツインレイの人たちのなかにも「相手の何を信じているのか」と考えたとき、信じているものが「悪意なのに善意を信じる」とかがよく見受けられて、相手が悪いことをしているのに「本当はそんな人じゃない」っていう『本当は』の偽善を勝手に生み出しては信じているという妄想などもある。

ツインレイのサイレント期間は、基本的に「相手の気持ちはわからない」状態であり、相手の気持ちを決めつける期間ではない。相手の気持ちを理解したいとは思っても、相手の気持ちがわからない期間であるがゆえに、わからないことはわからないと置いておく期間でもある。

子育てにおいてもいえることで、子供がした行いを善と悪に振り分けたとき、私たちのなかで勝手に変換して理解していることなどもあるがゆえに、現実的な部分でしっかりと解釈しておく必要性があるわけだ。

ツインレイたちの多くが、親の幻想のなかで育っている。

親が持つ善悪は、そもそも幻想である可能性があるということだ。

親が言うあなたという存在が『悪意ある存在』にすり替えられているケースだってある。

 

私たちは私たちのなかに『解離している部分』がいくばか発生するものである。解離がない人のほうが珍しい。

それが分離している——とも言えるのだが、それがトラウマとして存在している。

トラウマがあればあるだけ『相手を善意』または『相手の悪意』を捉えやすくなる。その善悪の分別をオリジナルで行い、現実を放棄し、ひっくり返す。

受け入れられない現実がそこにあるとき、現実を放棄して、相手を過剰な善人だと想い、相手を過剰な悪人だと思い込む。たいてい、受け入れられない何かしらの現実がある。そしてトラウマがある。

 

すべてにおいて言えることだけれど『思い込み』がある。それを私は幻想とも呼んでいる。

相手を思い込んでいるのか、自分を思いこんでいるのか。それとも、状況を思い込んでいるのか。

それが現実性を失われているとき、たいていは思い込みの領域に突入する。

リアリズムとは、現実性を重要視することである。

精神にも現実がある。

「本当に相手が思っていることを捉える能力」がある。

HSPやエンパスなど語られているものだが、それらが『現実性を持っているのか』それとも『思い込みの内容なのか』については二分される。

精神が現実的に捉えられているとき、相手の精神のなかにある『善性』と『悪性』の二分は生じない。

現実はひとつだから。そして、その心に善悪はない。心に善悪はないのに、自分の心に善悪が生じていることが『精神の分離』なのである。

 

精神は統一され、そこに善悪はない。その領域にまで達するとき、私たちは誰かを決めつけることもないし、誰かを思い込むこともない。

ただ「そこにある心」に触れるようになる。

それは現実的な部分に繋がっているからこそ、自分自身が精神を分離させることがないのである。

相手のなかに悪意が視えるのは、自分のなかで悪が分離している。相手のなかに偽善が視えるのは、自分のなかで善が分離している。

つまり、人に審判をつけるということは、それは人が行う『精神的な善悪』であり、精神的な善悪はこの世には存在していない。

神の審判——と呼ぶべきか。もうひとつ上の審判では『精神的な善悪を持つことが悪』なのである。

善良な心と悪意ある心が『ここにあること』として認識されること。それこそが地上という地獄なのである。

いわゆる、これが究極になってくることが白黒思考とも呼ばれ、ボーダーラインって呼ばれているものにも症状のひとつとして組み込まれている。

  • 対人関係を敵か味方かに分けて考えたがる。
  • 他愛のない遊びでも勝ち負けにこだわる。
  • 解決した問題についても責任の所在を明確にしなければ気がすまない。
  • 少しの失敗で誰も責めていないのに、極端に自分を卑下する。
  • 恋人やパートナーに対して私と仕事どちらが大事なのと詰め寄る。
  • 少しでも失敗しそうな気配があると挑戦自体を諦める。
  • 挨拶されなかっただけで嫌われていると決めつける。

(中略)

10歳前後まではまだ精神発達が未熟なため、白黒思考を持ちやすい時期。そのため子どもに好まれるアニメの多くは、正義の味方と悪者がはっきりと区別して描かれています。

引用:白黒思考とは?原因と治し方を徹底解説。認知行動療法に基づくアプリもご紹介 丨コグラボ- Cognitive Behavioral Therapy Lab

精神発達の段階で『自分の殻のなかに閉じこもったまま』なのか。それとも社会の荒波に触れて『自分の殻を飛び出しているのか』の違いがある。

現実的な部分をちゃんと繋げていくことで、たいていは『現実重視』となるものである。

しかし、現実重視が出来ずに、自分の精神を通して相手を見ることにより、相手を善悪の審判をつけるようにもなる。

いわば、自己投影が行われていくということ。

自分が思っていることが相手が思っていることだと思い込む。この連鎖が親子の間で行われていく。

 

とはいえども、たとえば、自分の殻を破ってちゃんと現実重視にして生きていたとしても、裏側にある『背負っている幻想』は、子供に継承されていく。

子育ての段階で、自分が親に受けた傷をなぜか子供に与えてしまうケースがある。これがトラウマの継承であり、解離や幻想がもたらしている問題である。

 

つまり、他人を善悪で判断することは、自分のなかにある精神を善悪で判断しているということ。

いわゆる分離人格となっている。そして、その分離人格を統合人格にまで持ち上げていくと、相手の現実と精神のバランスをとってよく観察することができ、現実性と精神性の統一的な視点をもたらした視点を得られるようになる。

しかし、分離人格だと、分断された理解になるため、それは自己投影に他ならない。

自己投影により育て上げられた子供たちは、幻想に抱かれて育つ。それが善悪思想である。

 

善悪思想を断つには、何が善で何が悪——ということではなく、現実と精神が統一されることによりもたらされる根源的な精神に触れることができるようにならなければならない。

子供はとはより精神的な生き物である。その精神的な生き物を、現実的な部分につなぎ留めておくことが親の役割であり、子供を善と悪に分類することではない。

子供は子供である。善でもなければ悪でもない。性善説と性悪説があるが子供は子供である。いかなる子であれども、それは子供なのである。どちらかに分類したいのは、私たち自身のなかにある分離している善悪思想に他ならない。

そして、善悪に分類された感情や欲求が、私たちのなかに攻撃性を生み出していく。

他者ではない、自己のなかにある悪を攻撃したいのである。その悪を攻撃するとき、私たちは立ち還らなければならない。自分のなかにある『悪』とは何か。

それは親である。親そのものが私たちのなかで善悪の思想を構築させている。親が善であり、子が悪である私たちは、この過程を経ていく。

親が善である——と思いたい気持ちと、子である自分が悪である——と定義されたふたつの葛藤は、親殺しを行う。

 

つまり、善悪思想とは『親殺しが終わってない』ってやつ。たいてい、親を殺していないから自立が出来ていない。

それは自分のなかにいる親である。

親殺しが終わっている人たちは、精神的な自立をしている。

親としての完成は「殺されること」である。精神的に自分のなかにいる両親を殺し、廃し、そこに自らが座すこと。これが大人になるということである。

 

サイレント期間の始まりの時。

私は彼に殺された。母殺しにあった。だから私は彼のなかにいない。私は殺されることを受け入れた。

私は死ぬことにした。だから彼は今『母親から自立』していると思う。甘えていないと思うし、善悪思想にも囚われていないと思う。

現実だけを見つめることが出来ていると、それこそ信じている。