救世主と救済を求める人の関係性のツインレイについて(天地の統合的な視点を持って)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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第六チャクラのなかに『地獄の概念』が入り込んでいる。

この地獄の概念とは救世主(メシア)とセットで救済を求める人たちが囚われる世界とも言える。

第六チャクラ・・・地獄の概念

第七チャクラ・・・救世主・神

第一チャクラ・・・救済を求めるもの

第六チャクラのなかみが地獄の概念だからこそ、第一チャクラと第七チャクラの関係性による天地の関係性が『救世主・神』と『救済を求める人間』という関係性になる。

今回、地獄の概念を破壊してきているのだが、救世主はこの世にはいない。自分の責任はすべて自分でとる。

つまり神に甘えない、人に自分の感情を押し付けない、人に自分の人生を押し付けないなど、他者に救世主という神の概念を持たせないことにより、自己責任を持たされる。

この自己責任の概念が成立すると、神の概念が消失される。

つまり第七チャクラの中身は『救世主・神』ではなくなる。中身が何かは知らないが、この中身が変更が成され、天地の第一と第七チャクラは『神と人の共存』という視点を得ることになる。

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さて、ここで「なぜ救世主が必要なのか」である。

それは皆、自分の人生や自分のなかにある問題、ほかにも色々とあるが『自分のものを自分で背負うことができない』という未熟さにあるのかもしれないと思っている。

自分の人生がいかなるものであったとしても、この道から逃げることは許されない。

それがもしゴミクズニートだとしても、これが自分の人生なのである。つまり自分の人生がいかなる人生であれども、その人生を誇りをもって生きねばならないという縛りが生まれた時点で発生する。

この縛りから私たちは解放されたい。なんならよりよい暮らしをしたいと思う。自分の人生が憎いもののようにすら感じるような——。そんな感じの人生を私たちは受け入れていかなければならない。

そのとき、私たちの人生から誰かが助けてくれる。そのように思うことが救世主である。

そしてそれがツインレイでもある。

ツインレイは救世主ではない。もちろん私も救世主ではない。神ではない。

ツインレイはそんな風に、自分の人生を助けてくれる神として現れてやってくる。私たちはその手を離さなければならない。

ツインレイの相手を神にしたいわけじゃない、ツインレイの相手に助けてほしいわけじゃない。ただ逃げたくない、自分の人生から。自分の辛いと思っていることから。

辛いと思っていることから逃げ出したらいけないと、ツインレイの相手を神にせず、自分で自分の責任を背負う覚悟が決まってようやく『自らが神になる』のだと思う。それは人になると同意語なのではないか——と思う。

神と人は紙一重、どちらも同じだが、どちらも違う存在。しかし、私たちは他者を神にしてはならない、自らが神になるのはまだしも、他者を神として崇め、自分の人生の犠牲者にしてはならないのである。

ツインレイは、そんな風にして『神と人の課題』を抱えているようだ。

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ツインレイは神のように、自分の人生を救ってくれるだろう。それを求めてはならず、これを神からの自立とする。

神からの自立を済ますには「ツインレイに助けを求めない」ことにより自立を迎える。これは第七チャクラの課題かもしれない。

第一チャクラの課題が「ツインレイに助けを求めている自分」になっているような気もする。

このふたつの相関性により『救済』を求める世界観が『地獄』『仏教』『お釈迦様』という世界観なのかな、と。

そして、この世界観は、自らのなかに助けてほしいという救済の心がある限りは地獄が存在し続けるんだろうと思う。

地獄とは「助ける人」と「助けられる人」の関係性で、助ける人を崇めていく経緯で人が神になっていく。助けられる人たちが信仰者になるって感じだろうか。

そもそも一番に助けられたいのは、人を助け続けている人だと思う。人を助け続けているのは、自分のなかにある根底の「助けてほしいと思う心」があるからである。

助けてほしい心を自分で助けてあげなければ、私たちは地獄のなかにい続けるしかない。

 

自分の世界が地獄だった理由は、この第一チャクラに潜む『救済されたい心』と、第七チャクラが呼応する『神・救世主』という関係性が第六チャクラが悪夢を齎し、第五チャクラが地獄の世界を創造するようになる。

この世に神はいない。なんなら自分だって神ではないし、ツインレイも神ではない。自己犠牲の先には何もいいことはない。だから私はツインレイとして失敗作なのである。

この救済されたい気持ちがなくば、地獄の世界に存在する救済の神という概念も生まれない。

自分自身が神をやめる必要性があると、私はずっと思っている。そして私はその経緯をたどっている。

私は自らが神にならないことは、地獄を生み出さないことだとも思っている。

世界の創造が『救世主が存在している』『ツインレイを助けてくれる』『自分の望みを叶えてくれる』というカタチで生まれることで、救世主の概念が残ってしまう。これが地獄なのである。

そして、救世主は人を助けることでより一層、神としてあがめられることになるだろう。救世主とは地獄だからこそに必要な概念だと思う。

ツインレイ。こちらも、自分の人生にとっての救世主である。この救世主を私は神にしてはならないと、そのように思っている。

ツインレイを呼び寄せるには、究極に辛い状況に自分が追い詰められたときに『呼ぶ』だろう。私たちは辛いからこそ、救世主を呼び出し、自分の神を見つけることになる。

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この世には人しかいない。どこを探しても私たちはだれしもが人である。

この『人類は皆人間であること』を認めていかなければならない。誰も助けてくれない、当たり前である。皆、人である。救世主ではない。

だからこそ、私たちは皆で協力して生きていかなければならない。これが共存である。

第一チャクラを『共存』とし、第七チャクラには『個人』という概念が欲しいなと思う。

この世に生まれて皆、孤独である。だからこそ、産まれた時点の第一チャクラを共存とする。そして、育つ経緯で私たちは個人という概念を獲得していく。

個人とは「なりたい自分になること」である。なりたい自分とは何か——を追求してみなければならない。振りかえれば、いかなる人生であれども、私たちはなりたい自分に成ろうとしていたことをも理解できる。

地獄新しい世
第一救済を求める・依存共存・存在
第二怒り・不安・悲しみ喜び
第三他者の集合体自他
第四犠牲
第五希死念慮・罪と罰言霊・音
第六悪夢予知夢
第七ワンネス・救世主なりたい自分になる

まとめてみると、これぐらい違うかもしれない。

ただ、地獄を知らねば新しい世も知れんのかもしれないと思う。つまり地獄には地獄の意味がある。

地獄はナミの世界で、新しい世がナギの世界とする。このふたつは表裏一体性だと思う。どちらかが欠落しても意味がなされない。

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かみなり様は我は神なり。(だから雷のような衝撃?)天上天下唯我独尊みたいだな。お釈迦さまが生まれたときに言われた言葉。

これを、直訳いたしますと、「この空間において尊い者は私一人である」になりますが、お釈迦様のような立派な人が自分だけが尊いなどといわれるはずもございません。

これは「生きとし生けるものすべてが尊いことなのです」すなわち、あなたたちひとりひとりが「この世の中で大切な役割を持っていてそれぞれが尊いのです」と、教えておられるのです。

引用:《天上天下唯我独尊》( てんじょうてんげ ゆいがどくそん)とは?|ベル少短かわら版 VOL.25|葬儀保険「千の風」

「この空間において尊い者は私一人である」と認識した人もいたような気がするし、「世の中で大切な役割を持っていてそれぞれが尊い」と認識した人もいたような気がする。慢心が関係しているような・・・・・。

なるかみ様とは我は成る神。自らが自らで役割を担います、、てカタチになるのかな?

 

今、降ってきた言葉。

『龍が目覚める』

黄龍は汚れが酷く、神の世に戻れなくなった。人の穢れを引き受けている人たちって龍なのかな?