なぜ、ツインレイたちが『神』を語るのか。

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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単純に、自分の心の中に傷があるがまま、善行していると『神』にまではなっていく。自己犠牲の量なんだが、それが『己の死』にまで到達したとき、私たちは自分自身の精神が消失されるのもあって解離が起きる。

つまり、ツインレイたちが「自分は神である」「自動書記がある」「神の声が聞こえる」等のことは、神みたいな人格が自分自身のなかに構成されたということでしかない。でもそれは自己犠牲と言う神の人格に他ならない。

自己犠牲しまくると『神という存在』が生まれ、その過程において『宗教』が立ち上げられる。その背景には心の傷が凄まじい量がある——ってこと。

心の傷が多ければ多いほど、自己犠牲をし、その自己犠牲によって神が生まれるってだけ。

だから、ツインレイたちが神であるっていうわけではない。何があってもそれは「解離が起きてますね!」ってことで処理される。それが現実である。

で、多くの人が、自分の心の傷を残したままとなっているがゆえに「神」という概念を捨てることができない。

いわば、神とはあんたのなかに心の傷があるんだよっていうサインでもある。この世の神とは犠牲のなかにしかないってこと。で、その犠牲をしなくちゃいけない原因は蛇にある。私たちのなかに棲んでいる『蛇』という存在である。

私たちは自分自身のなかに『神(自己犠牲)』『アダム(理性)』『蛇(本能)』がある。その本能が『攻撃性』なのか『生きる欲求』なのかは別であり、理性で抑制するべき攻撃性(心の傷)を持っているとき、神と言う自己犠牲人格を必要とすることになる。

いわば、神という存在は『自己犠牲』という人格にあり、この人格そのものは自分自身の攻撃性を自分に向けることにより自己犠牲が成立すると言うこと。

他人を攻撃したくないっていう気持ちが自己犠牲精神を生み出し、他人を攻撃しないために自分が死ぬっていう存在が神。キリストさんである。

で、この『他人を攻撃しないために自分が死んだ』人たちは、神という存在に気づいていくとは思うんだけれども、それが『人であること』は理解している。

単純にキリストさんを神だと思っている人と、キリストさんは人だと思っている人の違い。

キリストさんは元々人だよ。人がつるし上げられて、最後は死んでも尚、殺されたってことね。人として人の為に死に、死後に神になったっていう原理を知っているのかどうか。

元々キリストさんが神としてこの世に神人が生まれた。だからキリストさんが人でありながらも神である——と考える人との違い。

肉体があるだけ人は『人間』なんだよな。これを現実的に理解しているかどうかは、本当の意味で自己犠牲しているかどうかだと思われる。

 

神への道というのも『自分の満たされない想いを満たすための道具』として、他人を承認欲求の道具とするとき、自分自身が神である——という思想を必要とする。

自分が自己犠牲して、自分のなかに痛みが生じているとき、私たちは常に「痛い」という精神的な痛みを感じる。これが人の特徴な。

つまり、自己犠牲は死なんだけれど、死に続けていくってことは痛み続けていくってこと。

その行いに、その行動に、その発言に、自分のなかに痛みがない人は『自分は神である』と言い始めるかもしれないけれど、本当の意味で自己犠牲している人は、ものすごく無理をしているから、自分は神であるってことよりも「自分は人である!」っていう力強い感覚の方が強いと思われる。

生きている実感が痛みから感じられ、それが『人である感覚』を呼び覚ましていくから。

 

「自分は神だ」って着地点みせた人の多くいた。

 

自己犠牲って感謝を求めてやっているわけではないんだよ。

自分が自分であるために自己犠牲しているの。自分が自分を保つためにやっている。だって自己犠牲しねえと自分のなかにある攻撃性が他者に向かってしまって人を傷つけてしまうから。

人を傷つけるぐらいならば、自分を破壊する、自分を殺す。最後は消滅させる。他人を傷つける自分はいらないから。

そういう感覚があるのが神の道にいる人で、最後は人に戻る。神になろうとは思わない。拷問に合い続けたいと思う人がどこにいるのよ?

人として扱ってほしいと思う。私は人である——と言いたい。

でも、自己犠牲していると大抵、他者奉仕も必然的に多くなるから感謝されることも実際はすごく多いよ。でもそれ以上に自分の痛みが強い。

だって、人は自分のささくれが一番痛い生き物でしょ? 感謝なんて塗り薬のひとつもなりゃしないこと、理解しているはずだよ。意味がないんだよ、感謝されることに。

だから、感謝されたいっていう欲求がそもそも失われている状態になっているはず。勝手に他人が感謝している感覚しかなくなる。求めてないから。感謝されてうれしいとかも無くなる。

交通事故にあって「大丈夫ですか!?」って言われても、いや見りゃわかるでしょって思うデショ、大丈夫じゃねえよって思う。そんな感覚に近いかもしれない。

外部から声かけられて感謝されても、そんなん何にも意味ない。

「よかったね。」って絞り出した声で言ってくれると思うよ。このときに私たちは破壊される。自分よりも他人を優先して自己破壊したから。

その心に共感してもらえたとき、ようやく私たちは救われる。で、ほとんど共感されない。w 理解がそこに到達しないと思う。

自己犠牲の道ってそういう道だよ。これが神の道。

私の知っている宗教っていうか、あたいが師匠に叩き込まれた神への道。

 

だから私にとって「感謝をしましょう」ってことはよくわからないかな。

つってもしないよりも全然マシだし、まともだとは思うし、普通だと思う。感謝は当たり前の教育のひとつだと思う。

「たしかに受け取りました」が感謝。つまり合図みたいなもので意味はない。合図がない人もいるし、ある人もいる。

受け取った合図はあったほうが戸惑わなくていいよねとは思うけれど。

でも感謝されても何も心は救われない。承認欲求は満たされるんじゃないかな、そんなもんは昔に破壊されて藻屑だから、感謝されても何も思わないってだけだとは思う。

どうしてその人がそうなのか。

その心に寄り添うとき、きっと涙が出てくると思うよ。

私の記事を読んでいて、心が痛むとか。意味も分からず泣いてくれた人とか結構いて。そんなとき私は心が救われている。

それであなたも一緒に救われている。

だから感謝してくれる人は「たしかに心を受け取りました」と言ってくれている。

そんなとき、全力で感謝している。受け取ってくれてありがとうって思う。救ってくれてありがとうって思う。

あなたが救われると私も救われる。

だから書き続けているんだと思う。救われたいから。人に感謝したいから。そんで救いたいから。

人を地獄から救い上げるには想うこと。

相手の心。相手の下に心という手を差し伸べることで、人は救い上げられる。

 

神の道の先にいたのは、人だったよ。人しか人を救えない世界だったってこと。

みんな、神さまだよね。それは、みんな、人だよねってことでもある。

みんな誰かを救っているよ。

そんなとき、必ず相手の心に触れて涙を流している。何も特別なことじゃない。

心の痛みに触れると、やっぱり痛い。痛いと思うってことは自分にも同じ痛みがあるんだよ。

同じ痛みを抱えている人間が憎みあってても仕方ない。

でも、自分の痛みに触れることが出来ない人は憎むしかないよね。恨むしかないよね。

 

自分は神だ! つっている人が何しているのかは謎。きっと人を満たしていると思うよ。

で、感謝されて満足していると思う。でもさ、本当に満足してんのかっつーと、彼らも苦悩のなかだと思うよ。

だからそんなに責めてくれんなよって思うがな・・・・・・。

みんな同じ穴の狢じゃないの・・・・・・。

 

この世に傷がない人間はいない。

もしアセンションというものがあるならば、それは心の痛みに触れあうことでしか出来ないんじゃないかな。

泣くしかないよね、相手の心に触れて。それだけでもうアセンションしていると思うよ。

だから、まァ、レイキ中はずっと泣いているよね、私は。

 

とりま、神の道を全力疾走してきたら、こういうことになった。

色々理解したし、自分が救われた。そして人を救えるだけにもなったと思う。

私と言う存在そのものが勝手に誰かを救っていくと思うし、だからたぶん、ものすごく気ままに、ただやりたいことやって生きていると思う。

やりたいことやってるとき、私は必ず誰かの心を救ってると思う。

使命って「命の使い方」だよね。私の命の使い方は、やりたいことやってるときに勝手に誰かの心すくってると思うわ。

そうやって時間を過ごしていこうと思う。人の時間はとても短く、有限だから。

 

私は神の道を走ってきたけれど、その先に或る者は人で、神ではなかったんだよ。

すんごい面白いメカニズムだと思うけれど、この世に救いはある。この世に自分以外の人間がそこにい続ける限り、この世には救いがあり続ける。

あなたがもし救われていないと思うのであれば、それは救われようとしていないからだと思う。