精神版|ツインレイがワンネスに到着するまでとツインフレームとの関係性
次元階層ですが、上から順番に
- ワンネスの光の集合体
(自己完結した存在の集合)- 光としての個と複数系
(投影を終え自己完結的)- 存在と影の分離
(幻想世界・投影しまくっている)- 光と闇の分離
(悪魔の世界・妄想に憑りつかれている)というような状態でしょうか。
というカタチで階層について書きました。
この件で少し感じたことを補足しておきたいと思います。
- 5次元—全体の統合世界
- ワンネスの光の集合体
- 自己完結した存在の集合
- 創造
- ツインレイ(ないものを生む)
- 4次元—個の統合世界
- 光としての個と複数系
- ワンレイ
- 投影を終え自己完結的
- ツインフレーム
- 引き寄せ(あるものを寄せる)
- 3次元—現実・存在の確立
- 地上のツインレイ
- 分離—投影世界
- 存在と影の分離
- 幻想世界・投影しまくっている
- 分離—妄想世界
- 光と闇の分離
- 悪魔の世界・妄想に憑りつかれている
- 妄想
私たちの存在そのものは時間的概念を超えて3次元に存在している。時間的概念を追加したとき、4次元における光としての個としての認識になる。
対立するのは、存在と影の分離世界であり、この世界では『シャドウ』の課題を抱えている。
つまり『光としての個』という課題は、投影の課題を終わらせていく必要性がある。
ワンネスへと到達する人たちは「妄想」を克復していく必要性がある。
のだが。たいてい、この『投影世界』と『妄想世界』に沼のようにハマる人が続出している件。
地上のツインレイは『現実・存在の確立』という「ありのままの自分を受け入れること」を目標にしている。
が、存在の確立が明確に出来ていないとき、ワンネスの課題に入るわけもなく、下の階層における投影世界の課題、または妄想世界の課題へと切り替わっていく。
つまり、ツインレイと出会ったというのも妄想に落ち着いてしまう。そして妄想にすがってしまう理由は、存在の確立が出来ていないということ。存在の確立の課題が克服できていないのにツインレイの相手を認識することは出来ない。
が、ツインレイの相手だと妄想をしてしまう可能性が危惧される。
たいてい、私たちは『投影世界』に存在している。その下にある妄想世界にはいってしまう理由は、自己投影の克服が終わっていない部分——。いわば、自己の存在確立が出来ていない部分は大抵妄想に落ち着く。
妄想の段階から投影世界に戻るには、自己の確立を明確にさせていくしかない。
妄想と投影は結びついているが「存在の確立(如何なる自分をも受容する)」によってゼロの地点へ戻ることができる。
4次元の段階をツインフレームとし、5次元の段階をツインレイとした。
ツインレイと出会うと「ワンネス」を経験すると思う。が、それがもしかしたら「妄想の話」かもしれないわけである。その人の話す話が本当なのか? については、当人の存在が実体しているのかどうか——である。背景がちゃんとあるのか、だ。
そして、4次元の段階をツインフレームとしたんだが、この段階は「個という光の確立」にあり、光として個が確立したとき、私たちは光と光としていっしょにいることが出来るようになる。
ツインフレームなのかどうなのかはわからないんだが、ワンレイとして自己が確立したとき、私たちはワンレイがツインフレームとして揃うのではないか——と思った。
ワンレイとしてツインフレームが揃うとき、私たちは仲良しになると思う。これがuyuさんにあたると思われる。お互い個としての光で共存することができる。
私はツインレイの彼とはネット越しである。uyuさんもそんなもんである。
ゆえにこれは『妄想のツインレイの彼』となり、偽ツインレイなのだと思われる。本当に相手を知らないのだということ。
そして、uyuさん自身も私も、けっきょくはそれが「本当にツインレイなのか」についてはわからない状態にある。
私たちのなかには妄想性というネットという壁が存在していたからである。この壁を乗り越えることにより、現実性を持つツインレイの相手に出会えるのかなと思った。
それが私の場合、彼なのか、どうなのかは不明。だが、たぶん、私の場合、彼だと思われる。
当初「偽ツインレイとして認識した存在が本物だった」ということだ。
uyuさんの場合は逆かもしれない。本物だと思っていた存在が偽物であって、本物は別に存在していた。
また、私はツインレイが彼ではなく、uyuさんは彼だった・・・・・・とかね。
ツインレイと誤認しやすいものとして「自己投影した存在がツインレイだと思った」「妄想した存在をツインレイだと思った」ということである。
ツインレイと出会う存在は「自己の確立」が明確に済まされており「自分」という確固たる指針を持っている。
そして、ツインレイかどうかの話を差っ引いても、自分のなかに他者が入っているってヤバない? なんなら、妄想の話をしているってのもヤバない? ってことなんだよな・・・・・・。自分のことを他人だと思って投影しているってのもヤバいよね・・・・。
けっきょく「自分のなかにある意見って他人からコピーしただけ(知識の鵜呑み)」とか「妄想の話を現実だと思っている」とか「自分のことを他人だと思い込んでいる」とかも、客観的にみるとめっちゃヤバいんだけれど、それに気づかない理由は「客観性」にある。
客観性って何か? っていうと、他人から見た自分がどのように映っているのか——である。
そして、その自分に対して羞恥心を感じているかどうかである。
上記の通り、知識の鵜呑みしている自分。他人からすれば「ただのコピーじゃん」って思われている。恥ずかしくねえか?
妄想の話を繰り広げている、恥ずかしくねえか?
他人のことをバッシングしている割に、それって全部自分のことじゃん。恥ずかしくねえか?
羞恥心なんだよな。恥の意識がなくなった。恥とは心の耳である。人の話をちゃんと心で聞いているのか。
人からしか客観的な意見は与えられない。その意見を聞いて「恥ずかしいな」と思って自分を正しく直そうと思う正直さと、素直さが欠落しているとも言える。
私は素直な子が好きなんだけれど、それは「間違えていると思ったら、直す心」があるかどうか——である。いわば、これが心の羞恥心である。
私は私が好きなんだけれど、それは私は自分が間違えていると思ったら直し続けてきたからである。そんな私を私は好きだと思う。
で。個の統合世界とは常に「自分に間違えているぞ」と言い続け、「間違いを直し続ける」っていうサイクルのなかにいる。
だから他人批判は自己批判になるねん・・・・・・。でも、そんな自分でも愛しているよ・・・・・・。常に自分を殴り続けるシステム・・・・・。
最終的な結論。
ツインレイとはワンネスとして共存する相手。
ツインフレームとはワンレイとして共存する相手。
投影世界の偽ツインフレームは偽ワンレイである。(自分は光である)
妄想世界の偽ツインレイは偽ワンネスである。(自分は神である)
前者と後者の違いは、後者は「光になろうとして、神になろうとしている」のであり、前者は「光であり、神である」。
なろうしてもなれない。光じゃないし神じゃないからなろうとする。
神を自己都合の願いを叶える道具で、サンドバックだと思ってる人たちが多い。
タイトルに精神版としたが、これの現実版もあるってこと。
それについてはもうめんどくさくなってきたから、書かない・・・・・・。