ギフテッド(精神障害)と発達障害の違いについてとブッディ体の統合
優秀な人とギフテッドの違いについて書いたんだから、発達障害も書いておくべきなのかなと思うので、とりま認めてみようか。
発達障害についてなんだが、個人的な勝手な解釈として衝動性の抑制が効かないことにあるのかなと思っている。
脳の発達が十代の後半には衝動性の抑制が成立するんだが、脳の発達の兼ね合いで遅れているとき、衝動性の抑制が二十代になってしまうことがある。
衝動性とは何か——だが。
車の運転中に「危ない」と感じると大人はブレーキを踏む。だけれど、ティーンの段階の脳は「イケる」と判断し、余計にアクセルを踏んでは事故を起こす。精神的な問題でも、このような出来事がよく起こる。
私はこの衝動性のブレーキが手に入ったのは二十代半ばだったんだが、このときに『脳の切り替え』が起きている。
今までは親の支配で親の言いなりとなっていた子供。大人になる脳に切り替わるとき自己判断をするようになるが、判断ミスが増えて叱られることが増える。
つまり、この衝動性による問題が「いつ起きるのか」である。それが遅れれば遅れるたびに、脳が子供のままって話でもある。
子供のままの脳が大人になる段階に差し掛かるまで、世には適応障害を起こすようになる。
単純に「子供のまま大人の社会を見る」のである。子供の目線で大人の社会を見て、どのように感じるのか——である。その心こそが発達障害とギフテッドの視点である。
このときに発達障害とみなされる人たちは問題を起こしやすく、ギフテッドたちは精神障害を起こし自殺していく。
個人的には、発達障害の方々は衝突に対して自己正当性を感じているが、ギフテッドの方々は衝突に対して傷つき続けていると感じる。
発達障害は自己防衛となるが、ギフテッドは自己防衛ができない。
発達障害は自分を守る能力に高くなるが、ギフテッドは自分を守る能力が低く、常に精神が壊れそうになっている。
- 個人領域
- エーテル体(個体的感情)
- アストラル体(個体的知性)
- メンタル体(境界線)
- 人類領域
- コーザル体(人類的精神)
- ブッディ体(人類的知性)
- コスモ体(境界線)
- 神領域
- ??体(神的精神、知性がある)
このなかでブッディ体である『悟り』の領域に触れているがギフテッドだと前回は定義した。
では、発達障害とはどのようなことなのか。それは悟りへの否定だと思っている。
なとりがギフテッドだとしたならば、発達障害の人はなとりの話をどのように感じるのか。それは詭弁だと直感するだろう。
自己犠牲などバカバカしい。なとりの話す話は理想郷の話で、在りえないのである。
ギフテッドと発達障害の違いは、根源的にここで決別している。
ブッディ体に対しての否定と肯定である。
なとりの人生はブッディ体の肯定的な人生である。人には良心があるという人生である。
発達障害の人生は真逆である。人には良心などない、悪の心しかない。だから自分を守らなければならないのである。
しかし、どちらも『心(魂)』という概念に対しての否定と肯定を繰り返しているのである。
発達障害側は「心がある」ということを「否定」しているのである。あるものがないのである。だから当人のなかにも「あるべきものがない」のである。
持っているべきものが持たされていない。だから発達障害側の存在もギフテッドは憎いと思われる。あるべきものがあるからである。
ギフテッドの人格構成として、
- 人間性(ギフトへの樹立条件)
- 発達障害(ギフトへの対立性)
- 優秀性(能力)
があるとして。私の場合は「人間性」のみの保有者である。こたび、彼くんに出会い、発達障害と優秀性の意識をいただいた。
持っているものとしてブッディ体に繋がる能力のみである。それは私が人生で地獄を見ては、そのなかで構築してきた熱っぽい心だと思う。
そして、彼自身が構築してきたものは、発達障害というギフテッドとは真逆の気質であり、悪心であり、優秀とも言えるアスペルガー気質だと思われる。
表裏なのである。
ギフテッドと発達障害(能力保有)としたとき、そのふたつがバランスをとる。
ギフテッドにあるものは善悪の心であり、ギフ自身が善であるとき、発達障害側は悪である。
発達障害側にあるものが無心であるとき、ギフテッド側には在心である。
つまり、発達障害には「心があるか」「心がないか」の判断基準を持ち、ギフテッドは心に対しての審判性を持っている。その心が善であるのか、悪であるのかの考え方である。
発達障害側は、自分のなかに心がないと思っている。ギフテッド側は、自分のなかに心があると思っている。
逆に、ギフテッドは能力がないし、発達障害側は能力がある。
これが私の出会いである。
私は自分には心があると思っていたけれど、能力は何もないと思っていた。つまり無能だと思っていた。それは『裏側』にあった。
彼は自分には能力があると思っていたけれど、心はないと思っていた。つまり無心だった。それは『裏側』にあった。
私のなかにも発達障害的な無心の境地を知り、そこに能力が眠っていた。夢中に何かをし続ける時間のなかに私は「能力」を手に入れた。
表裏の存在にあるのがギフテッドと、能力ある発達障害者である。
このふたつが出会い、惹き合ったのが私たちである。
私は「人として生きるために、どうあるべきか」という人生を生きている。それが人間性であり、人が持つべき良心だと思っている。それ以外には本当に何も持っていない。
だけれど、私は彼のなかに「私を幸せにしたい」と思う気持ちがあったことを知っている。それを『心』と呼ぶのである。そこには「誰かを不幸にしたい」と思う心がない純粋なものであることこそが、ブッディ体へ繋がる架け橋である。
そして、私は彼のなかに「悪意がある」と思ったことはない。だけれど傷ついたのは事実である。悪意がなくとも人は人を傷つけるものだから。
サイレント中には悪意をもって人を傷つける人がいることも知った。
成長の違いである。
- 発達障害の始まり
- 肉体
- エーテル体(個体的感情)
- アストラル体(個体的知性)
- メンタル体(境界線)
- コーザル体(人類的精神)
- ブッディ体(人類的知性)
- 精神障害の始まり
肉体側から育つ人が発達障害とも言われる人たちで、ブッディ体側から育つ人たちが精神障害と呼ばれる人たち。
メンタル体による阻害がそこにはある。夢や幻想という壁である。現実性がないあやふやな世界である、インターネットである。
人とハイヤーセルフの違いがある。だけれど、人が神を愛し神が人を愛するとき、このふたつが結びつき、私たちは『ギフテッド』になるとも言える。
私たちは、どちらかの一辺しか持っていない欠けている存在でもあった。
心を持って生きる人生と、能力を持って生きる人生。
どちらかのひとつだけを持って、もう一つ側が「ない」と判断されたとき、私たちは抱き合わせて持っているものを差し出し合っている。
彼は「無心」を持っていて、私は「無能」を持っていたとも言える。ないものを羨ましいとは思わず、愛したのである。
途中から『精神障害』として書いたんだが、ギフテッドと呼ばれる素材を持っている人たちは精神障害を持っていると思われる。
自殺未遂している人たちなんだが、人はね。健全ならば、どんなに死にたいと思っても死なない。だから自殺はやっぱり病気だと思う。
つまり、精神障害の克服者と発達障害の克服者による出会いは、ふたつが結びつくことによりギフテッドとなる。
ふたつが出会うことにより、お互いの障害が浮き彫りになって「でちゃう」んだと思う。
自分のなかにある欠落が出てきてしまう。
彼は精神障害を持つ私を受け入れてくれていて、私は彼の発達障害を受け入れていたんだなと思う。
全くもって彼が発達障害だとは思っていなかったが、今振り返って自分が精神障害だったかっていうとヤバかった。統合失調症の症状を全力でだしていたような気がする。
人のなかにはこうやって必ず『障害の気質』みたいなものがあるんじゃないかな。
私たちは必ず欠けているところがある。それを補い合っているのが私たちの魂なのだと教えてくれている。
だから、いかなる欠陥をも愛しなさい。補い合って生まれてきているのだから——というお話だったような気がする。
かけていない持っている部分を育て、そして、自分が持っていないものを持っている人を愛し受け入れていくこと。
それが私たちを完全性へと持ち上げてくれる。
私が思うに、ブッディ体は『悟り』だけれども『障害』だと思う。
悟りと障害は紙一重にあり、その障害が受け入れられるとき、私たちは悟る。
それは「欠陥」だし「欠けている部分」である。欠けている部分が私たちの悟りなのである。
欠けていることに気づくこと。
自分のどこに欠けがあるのかに気づくまでの道のりは『持っているもの』を育て上げた先にしかない。
私は出来ない、私はわからない、私はやれない。
あなたはできない、あなたはわからない、あなたはやれない。
人は完全には生まれてきていない。だが、それがいい。
だから人は人を愛するのである。そして人に愛された自分を愛するとき、そこに神が生まれる。
そっか。私は彼の障害を愛したんだな。そして私の障害を愛してもらえたんだな。
感慨深いものだね。それは確かに『苦しい』よね。
ネモフィラ——どこでも成功。