苦しみを感じ続けていくこと、私が私と共に生きていくこと。

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さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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私の中で苦しみが泣いていました。
今まで辛かったこと、苦しかったこと。忘れちゃうの? って。
苦しみは感じたくないし、ここにあり続けて欲しくない。そう思ってた。苦しいから。
でも、苦しみからすれば、ここからいなくなってしまうことは苦しみを否定され、拒絶されているってこと。
苦しみは、忘れられてしまうことを恐れてた。
忘れないで欲しい、辛かったこと、苦しかったこと。なかったことにしないでほしい。
どうして苦しみが生まれたのかと言えば、私が私を大事にしてあげられなかったことから生まれた感情だと思う。
そうだ。私は、この苦しみを背負うことにする。
私は苦しみと共に生きることにした。苦しみを感じることにした。
苦しみがあっていいし、苦しみと共にいきる。
そう決めたら「私は私と共に生きる」という言葉が出てきた。
私は私と共に生きる。私は私を背負い、共に居続ける。私が私を守っていかなきゃいけない。
私はもう既に『他者と生きる覚悟』は決まっていた。だから無防備にも他者を信じることが出来た。
でも『自分と生きる覚悟』は決まっていなかったんだなって思った。
私は赤裸々に自分を表現する他者への信頼はあった。でも、昔の自分は信頼関係が構築できたわけじゃない。
信頼はあった。でも、信頼関係は構築されなかった。とても独りよがりな信頼だったような気がする。信頼の形が未熟だったのだ。
つまり、信頼する=信頼関係が構築できる、ではないのだ。
信頼関係が構築できる信頼を持たねばならないのだ。今までは信頼関係が構築できない一方通行の信頼だった。
これは私の中にある『信仰』に近いものだったと思う。
信仰は一方通行だけど、信頼は両者に関係性を生む。
信仰ではなく、妄想でもなく、信頼は両者の関係性を良好にするものである。
それでも私がここまでたどり着けたのは、信仰という信頼を彼に向けて生み出したからだと思いたい。