恐怖へレイキをする——副人格『3才に見捨てられた経験がある人格』
数日前に天使から「光のエネルギー」を授かってから、私の身体が震えていた。
なぜか寒い。レイキを充てていると、なぜか寒く、前ほど何も感情がこみあげてくることもなくなった。
しかし、寒く、背筋がぞくぞくとする。
これは『恐怖』である。
どうやら、私は恐怖を癒し始めたのだが、感情のなかでも恐怖は肉体に紐づいているから身体が震えてしまう。
もっともっと強いエネルギーを放出しなければ癒しきることができないのが恐怖。
生存に近い感情、死が近い感情。
私は恐怖のためにブルブルと体を震わせながら、レイキを当て続けてきた。
すると、何か怖かった記憶はなかったか。そのように考えてみると、殴られた記憶が蘇ってくる。私は殴るパフォーマンスをされると頭を抱える。殴られた経験があるから、どうにも反射的に頭を抱えてしまう。「殴る」と言われると、失神しかけたりもする。
私は『接触恐怖症』だった。
いきなり抱きしめないでほしいし、触らないでほしい。触るときには許可をとってからしてほしい。だって驚いちゃうから・・・・・・。
知らなかった、気づかなかった。
なんでそんなことを私のなかの人格が言っているのかがわからなかった。
私は人が恐いのである。そこに人がいるだけで怖い。なんだか怖いと感じられる。近づいてくるだけで怖いし、触られるだけで怖い。殴られた経験が恐怖経験として根付いているから、私はそこに人がいるだけで恐怖を覚えている。
気づかなかった、そんな私がいたなんて、忘れていた。
でも確かに人にいきなり抱きつかれると驚くし、人に触られることになんかすごくドキドキする。恋のほうじゃなくて、怖くてドキドキしている自分がいた。
私、接触恐怖症だった。殴られた経験とかがトラウマ化している。
癒しが進んでいくと、今度は「記憶がおかしい」のである。
先日、私は友達とジブリ美術館にいってきた。そのときの記憶がuyuさんとジブリ美術館にいってきた——という内容に書き換えられているのである。
あれ、おかしいぞ。そのように想い、uyuさんに確認してみたが、やはりuyuさんとはジブリにはでかけていない。
なのに、記憶のなかではuyuさんと私はジブリ美術館にいってきているのである。
なにかトラウマ的なものや書き換えしなければならないほどのストレスが友達とのジブリにあったのかといえば、No。何もない。マブダチとジブリできゃっきゃうふふの楽しい吉祥寺である。
それがなぜ書き換えられたのかがわからない。そう思うと、どんどん腹痛がしてくる。そして体がブルブルと震えている。
またもや出てきた、恐怖である。
恐怖に向き合っている間は地獄である。恐怖がこみあげてくるから少々パニック症状の一端に足を引っかけながら浄化を進めていくことになる。
そして『見捨てられ不安の記憶』にたどりつく。
いいや、これは、見捨てられ不安ではない。不安ではない。
私は見捨てられた記憶がある。
私は捨てられたのである。
三歳の私にとって『あの記憶』は、私は捨てられた経験をしたのだ。
つまり捨てられた恐怖を持っている。捨てられた経験からの恐怖を抱えて、その恐怖に怯え続けている三歳の私がいるのである。
私は捨てられた経験を現実的に体験しているのである。その経験から、不安がこみあげてくるのだ。
これは妄想と思われるかもしれない。だけれど、三歳の私にとって『ポイされたことが現実』として起こっていた。
あのときの恐怖に寄り添いながら、私は自分を癒していく。
この大光明は『恐怖』を癒していくみたい。
三歳の時の分離不安と呼ばれるものを抱えているとき、確かに『捨てられた現実的な経験』を記憶していることになる。
捨てられないようにするにはどうしたらいいのかと考える。捨てられない為に「すごい人間になるしかない」のである。
私はすごい人間になろうとはしなかった。
現実的にすごくないからである。劣等種であることは確かであった。姉にもゴミのように扱われていたからだとは思われる。
捨てられた子なので『自分はゴミクズ』だと思って生きてきた。いらない人間。
ゴミクズとしての意見は、最終的には「誰にも期待されていない、最高!」に行き着いた。
そして私と言うゴミクズが役に立つ日がやってくるとき、それは、この世が終わりの時である。ゴミでも使えるものならば使いたいと思う瞬間。それは『この世が終わっているとき』だからである。
ゆえに、私が役に立たないということは、この世は平和なんだな、よかったな~と思って生きていた。
この思想は『三歳の時に捨てられた経験』から導き出されたものと言える。
そう思うと、なんだか感慨深いものだなと思う。
ずっと「消えたい」「死にたい」がある。ずっとそこに消えてしまいたい私がいる。
いつか泡のように消えてしまい、いなくなりたいと思っている私がいる。
明日、死にたい。誰も私を求めていない。私はこの世に必要がない人間である。
私が受け入れたもの。
誰も私を求めていないこと、私がこの世に必要がないこと。
だから私は自殺未遂をしている。
この世で不必要な存在だからである。死ねばいい。
不必要な私を生かすためには『偽物の私』が必要になった。
「必要とされる私」である。
三歳の時、親にいらない子だと一度捨てられた経験があるんだな。
かわいそうに、わたし。
三歳の時から苦労してんだな、私——って思いながら、私は記憶をすり替えたんだなと知った。
私は捨てられたわけじゃないって記憶をすり替えた。私は私の都合がいいように記憶をすり替えた。
だから私のなかで捨てられた現実的な記憶が『ない』。捨てられたことがある実感がない。
でも覚えている。
おおいなるなとちゃさま。これが私のなかにいる誇大妄想の欠片。
けっこう気に入っているキャラかな、おおいなるなとちゃさま。傲慢で可愛い。
だから『存在が愛』なんだと思う。
私と言う存在そのものが愛。存在していることに意味がある、それが愛。
存在そのものが愛。なにもなくても、そこにいるだけでいい。それが愛だと私は言いたい。
何も持っていなくても、それだけでいい。そこにいて生きてくれているだけでいい。
それはたぶん、私が捨てられたことがあるから言えるんだと思う。
ゴミクズとして生きてきた私は「存在が愛」だと思う。
だって、私はゴミという存在で生きているなか、愛でしかなかったから。
多くの人にとっての劣等種である私はゴミだけれど、そんな私は皆を愛していたから。
ゴミはゴミなりに人を愛していた。だって、役に立たないからこそ、ゴミとして『人の役に立つこと』を探したら、愛して自分が破壊される以外に何もできなかったから。
それは愛だった。ゴミクズとして自己犠牲して自分を貶めていく人生こそ、愛がある人生だった。
私にとって、存在が愛。いかなる存在であれども、それがゴミであれども、ゴミはゴミなりに何もできないけれど、ただ愛することだけは出来たんだよね。
肉体と精神ひとつだけ持っているから、自分が死ねばいいなら一番に死ぬし、身代わりで死ぬならそれでもいいし。自分の精神が破壊されてダメになっても、それで誰かの役に立つならばそれでよかった。
つまり、ゴミクズは愛だった。私のゴミクズ人生は愛しかなかった。
誰かに愛されようとも思わなかった、ゴミクズだから。
そんなゴミクズにもひとつだけできることがあることを知った。
たったひとりだけのさびしさを癒してあげるだけの『存在』であることに、私は気づいた。
それが私にとっての『生』だった。