レイキで本格的な自己統合をようやく始めて——

レイキやチャネリングにご興味がある方、お気軽にどうぞ。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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自己統合の感想。
壊れるかと思った。でも、壊れてしまえ、と思った。壊れてしまってもいい、と思った。
自己を統合する。いわば、自分のなかに存在している他者を自我に統合させる。
これをここ数日間にかけて実践している。
レイキでは、ずっとインナーチャイルドの癒しから、チャクラの癒し。他にも、エネルギーコード(エーテルコード)を断ち切ったり、前世の記憶を癒したりなど、色々なことをやってきた。
分離してしまった記憶達も回収し、自分のなかで統合していく過程も、ひとつの『自己統合』だと思う。
でも、ここ数日間で、自分のなかに生まれてしまった「あなた(自己)」という存在をすべて自己統合するようにし始めて——。
レイキは『想い』で操作できるものだと思っているし、『想い』によってエネルギーが反応を示してくる。
だから『自己統合が何か』を理解することができれば、自己統合をします! ってなれば、レイキは自己統合のほうへいざなってくれる。
私は、私のなかに理論が成立しているものしか理解ができない。だから、他者がどんなに「自己統合が何か」と説いたところで、私自身の納得が誘わなければ、それを実行することができない。
だからこそ、私は理論を大切にしている。つまり、知識ではなく、智恵でなければ、レイキによって何かしらの処理を行うことができないということ。なので、レイキはエネルギー療法で手をあてていれば、レイキのエネルギーは流れるんですけれど、それ以上に「何か」をしようとするのであれば、それだけの知性は必要なんだろうなと思っている。
で、今回は、自己統合とは、自分のなかに存在している『他者(自己)』を『自分(自我)』に統合すること——と理解したので「自己統合しまーす」と、思いながら、レイキを使い始めると、でてくる。でてくる。
自分のなかに存在している「あなた」がイメージでポンポンとでてくる。色々な体の部位に「自己」が存在している。どこっていうわけじゃない。どこにでも、自己は存在しているし、その自己は私なのである。
私のなかで思い出される「あなた」は、すべてが私なのである。
私は、私を統合させていき、私はひとつに統一されていく。
どんどんと、私が私の視点に戻っていく。あなたからみえている私がいなくなり、私は私からの目線からしか、世界を視ることが出来なくなっていく。
そして、私は『ひとりの私』になっていく。
あなたは私である。当たり前である。あなたは自己である。自己が私であり、それを統合していく。
すると「私だけ」の世界へと切り替わっていく。
実際、私は私のなかに存在している『彼』でさえもを、私だとした。これが自己統合である。アニムスの自己統合である。
しかし、自己とは複数存在し、多量に存在している。その存在たちを片っ端から回収し、片っ端から「私の視点」へと切り替えていくとき、私は「私」になっていくのだ。
これが『自己統合された私』なのだ。
この自己統合過程を経て、私はとてもよく泣いた。翌日には目が腫れていた。ここまで目が腫れるのは珍しい、二重になっていた。
何が悲しいのかはわからないし、でも、自己とは悲しみから生まれる物なのかもしれないし・・・・・・。
これが愛の量なのかもしれない。相手の心を受け取った量。でも、それは私の分離した心。
自己統合が終わったかな? っていう今。
というか、自己統合を進めていく過程で、色々と買い物をしている。あと永久脱毛の予約を入れた。
なんでか出来なかったこと。それをやり始めようとしている。
あれやこれや、私は自己抑制をかけていたんだと思う。
やりたいことがあるのであれば、やればいい。でも、自己がそれを許さない。
自己とは間違った客観性だと思う。他人から思われるだろうという思い込みのようなものだとも思う。
その自己が私の足を止めさせていたんだと思う。
私がしたいことを、誰かが「やるな」と言っている気がする。これが誤った自己である。
やってもいい。でも、やったらいけない感覚がして、やらないほうへ舵を切ってしまう。
何もできないループの世界。
なんだか抜けていく感覚がする。自分が古い世界を抜けて、新しい世界に入ってきている感覚。
世界は、もっと広く、もっと明るい。私の世界はとても暗いものだったけれど、そんなことはない。
囚われていたような気がする。
楽しいことがたくさんあるはずなのに、つまらないものばかりを与えられては、私の楽しみや喜びを失っていたような。
第二チャクラの影響もあると思うけれど、自己統合が進んでいる。
- 第一チャクラ——自我の確立
- 第二チャクラ——精神的自立(女性のテーマ・母性)
- 第三チャクラ——反抗期・自立心・現実的自立(男性のテーマ)
- 第四チャクラ——共感性・自己統合
- 第五チャクラ——表現力
- 第六チャクラ——第三の視点(父性)・論理性
- 第七チャクラ——ワンネス・統合
(中略)
- 第一チャクラ——自己統合・自己実現
- 第二チャクラ——精神的自立(個人的アイデンティティ)
- 第三チャクラ——現実的自立(社会的アイデンティティ)
- 第四チャクラ——共感性
- 第五チャクラ——表現力
- 第六チャクラ——直観力
- 第七チャクラ——ワンネス
自己統合は『第四チャクラの課題』とした。それは、自我と自己の統合として、
- 第一チャクラ——自我の芽生え(第一反抗期)
- 第二チャクラ——自己と自我の共存(自己の確立)
- 第三チャクラ——自我の確立(第二反抗期)
- 第四チャクラ——自己と自我の統合(自己統合)
のような感覚がするから。私は、自己に呑み込まれた人(閉じている)。真逆の人は自己に反発する人(開きすぎる)。
この第二チャクラの課題で『自己』が、第四チャクラで統合されるとき、私たちは『自己統合意識』となる。
私は私である。私のなかに「あなた」という存在がいない。マルッとすべて私だけで構成されている自分が成立する。
そのとき、私は私の欲求に素直に答え、欲求のままに生きることになる。しかし、自己との分離や自己との反発などがないため、自己と自我の願いは同一となる。
しかし、このとき、自己=現実のあなたではなくなる。
自己統合が出来ていないと、自己=あなたという状態となっており、他者にケンカを吹っ掛けてみたり、他者に介入し過ぎたりとか、他者との関係性にモメるようになる。
自己統合している人とは、他者に嫌悪感を感じさせることがない存在ということになる。自己完結能力が備わっているからである。しかし、自己統合できていない人は、他者に介入しようとする。また、他者からの介入を受け入れすぎてしまう。
これをコンプレックスとも呼べるのかもしれないし、ある種の特徴性を満たすとき、自己愛性人格とも呼ぶ。
自己統合後、私たちは、自己と自我に同一されたことにより生まれる願いを叶える。
それが私の永久脱毛だったりもするんだけれど。爆
自己統合とは、自分の願いを叶える力を取り戻すことだということ。
それは、第二チャクラの課題で、
- 自分の願いが何かがわからなくなってしまっている
- わかっているのに実行ができない
- 自分の願いを支配的にしか叶えられない
という問題を解消する。自己統合とは、第四チャクラの課題であり、それは『自己との同一化』である。
私たちのなかに存在している他者とは、すべて自己であり、自分自身のことである。これが『第四チャクラ』がなせる業なのだと思われる。いわば、他者と自己の垣根を終わらせ、他者と自己が一致してしまったことを私は『自他統合』としているが、これこそが、自己統合である。
私は当初、自己を他者だと感じていたのだが、実際は、自他統合とは自己統合だったのである。私の勘違いだなとは思うんだが、あなたの願いは私の願い。そう感じたのは、自己統合の兆しであったのだ。
三年越しに、ようやく、あのときの不思議を理解することができる日がくるとは思わなんだ。
それもまた、私が『第四チャクラの課題』へと繰り上がったからなのだと思う。
図の説明:チャクラの仕組みを根底から組み替える作業——、ライトワーカーになること。
第四チャクラへと至ることは、中心に触れ、当初は『自他統合』としたが、次に『自己統合』と理解し。そこから、一周まわり、第一チャクラを『自己実現』としている。
第四チャクラの時代が、ユングの言うところの人生の正午なのではないか——と思う。そして、その時代に差し掛かるとき、私たちは根底に戻り、自己実現的な『自我の芽生え』を迎えることになる。
自己統合とは、自己実現の未だ兆しに過ぎぬ自我の芽生え。
つまり何が言いたいのかっていうと、私の人生はまだ半分以上残っているのだということ。
如何に生きるのか。昨晩、宮崎駿監督のジブリを観たけどね。
これを踏まえ、如何に生きるのか——なのだと思う。
思考を手放してはならない。私たちは知的生命体であり、人類だからである。
私たちが私たち人生から導き出すことができる解を見つけ出す必要性がある。
それが当人が持つアイデンティティであり、自分らしさであり、その人自身をたらしめるものではないだろうか。
人はそれを何もせずに手に入れることは出来ないし、他者から与えられるものでもない。
そして、ツインレイ。この用語もまた、その人をたらしめているものではないと言いたい。
これはアイデンティティではない、これは肩書きのひとつに過ぎぬ、魅力的なレッテル。
私たちは、自分が自分たらしめているものよりも、魅力的な肩書きに囚われやすいものだが、私たちの一番の魅力は、私たちの人生から導き出した解を持つことである。
解とは『自分』である。
自分を持っているものが、この世は少ない。それこそが、この世が地獄であるが所以のひとつに違いなし。