ツインレイの統合と無定義と無限について

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイは『自我側』と『真我側』に分離している。

図の説明:対立している状態から両立に向かう

引用:神さんの世界と人の世界の構造について(私のなかに神の概念があることを認めていく)

真我側は「相手を縛らないこと」が必要で、自我側は「自分で自分に縛られないこと」が必要。

 

今日、美羽さんにレイキをした報告メールを送り、その結果についてふたりでもちゃもちゃ話していたのですが、その後、6時間話し続けたわけです。最後には美羽さんが統合されましたので、その件について私なりに理解できたことを書いておきたいなと思いました。(理詰めでやりました)

自我からすると、真我とは「無限」という定義の様です。いわば『無』です。

自我とは「自分がある」わけですが、真我とは「自分がない」です。

真我には『無』なので、自我が真我に触れる際「自分がある」とされている「自分自身への執着」を手放すことが余儀なくされます。

自我側からすれば、真我は恐怖の対象です。融けて消えてしまうことに恐怖があるからです。

ツインレイの相手とは、自分が喪失され、融けて消えてしまう感覚に囚われるので、恐怖の対象です。ゆえに、距離を取りたいし、関わりたくないし、あんまり接触しないようにします。融けてしまうのが怖いからですね。

自我側のツインレイは、真我側のツインレイに対して「無限」を感じています。

この無限にも色々種類あるようです。

美羽さんところのツインレイは『天がない』んですけど、私のところのツインレイは『地がない』です。

天がないとは『宇宙が無限であること』であり、地がないとは『底が知れない』ことです。

宇宙が無限であることが受け入れられません、怖いと感じます。ツインレイの相手は宇宙ですので、ツインレイの相手が怖いと感じます。

地に底がないと受け入れられません、怖いと感じます。ツインレイの相手は地ですので、ツインレイの相手が怖いと感じます。

「ないことが怖い」のもあると言えます。定義されていない自分への恐れがあります。

ありとあらゆる理由があって「定義ができていない」わけなんですね。

このとき「宇宙」とか「地」として「無限」として定義される側のツインレイは『ないこと』を受け入れています。つまり、定義されていません。否、定義されないような人生を送っています。

私の公式は、Y=X+bとしての公式なんですが、このXとYに値がありません。しかし、bには値が入っています。

を無限として定義されています。つまり、どのような値が入ってもOKです。どこに値を入れても、それが『底』になります。

値がない・無限とされている部分=底がない

わけですが、この部分に値を定義すると「底」が定義されます。

つまり、私は「底知れない人」なわけですし、「無限に底をねん出し続けている」人でもあるんですけど、つまりは『底の定義者』でもあるわけです。どんな値をも入れることが出来ます。

で、どんな値を入れても、私は『底』を叩き出します。で、それを私は『底だ』と認識します。

つまり、私に出会ってしまい、私と言う存在を受け入れてしまったならば、あなたはそれ以上落ちることは絶対的にありませんっていう「底の定義者」ということになります。

そして、「天の定義者」とは、真逆に「ここが上限」という定義を持つことを無にしていくことは「これ以上は無理」と思っている部分も「定義ないよ」「無限だよ」「好きなところまで広がっていこう」という意識にあります。

つまり、天の定義者は「上限を定めない必要性」があります。これ以上は無理っていう概念を持たないというか。ないんですね。

私自身は、定義者なので「下限を定める必要性」があります。

天の定義者は「定義しない」わけで、地の定義者は「定義する」わけですな。

これが天と地の違いです。

でも、どちらも『無限』です。しかし、地は無限を許しませんし、天は無限を許します。

ので、私は無限を止めていく必要性がありました。下降をやめる。

無限を止めることで、天は無限を許していくことが出来ます。どこまで広がっていくことができる。

ツインレイとは、地の定義者にとっては「無限を止めるもの」であり、天の定義者にとっては「無限を開始させるもの」なのかなと思います。

 

で、ここでも『無限能力』について書いていこうと思います。

私は「掘り下げること」が得意です。無限にあれやこれやの提案を出してきますし、ケースバイケースを叩き出します。無限に掘り下げることが可能です。これが底を知ることがない無限能力です。

また、地とは『内側』にエネルギーが働きますので、私は自分自身のなかの探求を好みます。どこまでもどこまでも、内側の探求に挑みます。

天については、無限に拡大していくことになるのかな? と思っています。

1を定義したとき、地は0.1となり、天は10となる。

地は0.1の精密さを求めますが、天は10の拡大を求めます。

そして、0.1=1=10です。同列のことです。

 

私が今やっていることは、10という無限を受け入れること——です。いわば、拡大を受け入れること。

第二チャクラの課題は拡大と縮小なのですが、私は縮小を起こし「最小を叩き出す」ことができます。これが「一番小さい」を理解しています。次に、拡大という天が存在していますが、この拡大は「無限」であるということを受け入れていきます。

つまり私は「縮小」という概念の人で、「拡大」という概念がありません。

得たものを「小さく解釈する」ということができるので、抽象化が得意です。いわば、bit数を最小に抑えるプログラムを書くことに長けています。

拡大は「事例をたくさん保有する」ということができるので、経験豊富になってきます。

魂の輪廻数としても、私は「輪廻回数が人よりも少ない」です。真逆の美羽さんは「輪廻回数が人よりも多い」です。

でも、輪廻回数が多い少ないというところに優劣もありません。

 

ツインレイの話に戻りますが、「真我」に繋がるとき、恐れが自我側に生じます。自分が融けて消えてしまう感覚やアイデンティティの崩壊などを感じます。

しかし、それは「自分」ではありません。自分で自分に執着しているがゆえに生み出された自分を『自分』とは呼びません。

統合しますと『無』になります。自我側も『無』になります。

これは「なんもない自分を受け入れる」ことに繋がっています。大地との一体化、宇宙との一体化などのワンネス経験みたいなものですね。

そもそも真我側は常にワンネスのなかにいるともいえるので、常に自我の崩壊を起こし続けています。自我を持つことが出来ません。ゆえに『真我』を導き出すことに成功します。

しかし、自我側は、代わりに「自分を持っている」わけです。でも、それは『真我』ではないので、真我側の存在に出会うと恐れを感じます。ビビっちゃいます。無に消えちゃうので。

でも、最後は『融けて消えること』を受け入れることになります。

無になってしまいます。何もなくなってしまう。(これが怖い)

これが自我が、ほぼ一瞬で『真我』に切り替わる瞬間なのかなと思いました。

そうすると、アセンションルートにはいるって感じです。

ちなみに、無になることはどのようなことなのか——ですが、めっちゃキモチイイです。めっちゃキモチイイし、めっちゃ幸せで満たされていきます。

自分を持たないってことがどれだけ幸せなんだろう・・・・・・・ってことです。

宇宙に融けて消えてしまえば、大地に融けて消えてしまえば、私たちは私たちの原形を保つことが出来ませんが「そもそも私たちに形など不必要である」ということ。

形がないからこそ、自由であり、幸福である——ということです。

個人的には「めっちゃキモチイイ」が感想です。一体化すると、すごく幸せに満たされて、めっちゃキモチイイっていう感覚に浸される。

そうすると、真我側に『定義』または『無定義』が起こります。

真我側の地のほうには「これ以上下がることはない」という定義が起こり、底が決定します。

天のほうには「拡大する」という無定義が起こり、天が未決定となります。

下限はありますが、上限は失います。無限となります。上に、無限に広がっていくだけ。

人のなかには『地』と『天』の定義の両方がありますが、これの定義がひっくり返っている時、下限に限りなく、上限に限りある——となります。

これ以下に進むことはあるけれど、これ以上に発展することがありません。

いわば「自分で上限を制限する」し「自分で下降する」という道を進みます。

ですので、アセンションルートと、ディセンションルートを自ら進みますが、それが私たち自身の望みであることが事実です。

拡大する人は、ドンドン拡大していきますし、無限ループで拡大していきます。しかし、下降することはありません。

縮小する人は、ドンドン縮小していきますし、無限ループで真っ逆さまに落ちていきます。しかし、上昇することはありません。

しかし、皆、自分で自分の人生を決めています。それが私たちの決定だからです。

 

私のなかからは無限に文章が出てきます。それが私の無限だからです。

掘り下げること、細分化が得意です。内側にエネルギーを回すことが得意だからです。

そして、これ以上、下降することはありません。なぜならば、私の下降のストッパーとして彼がいるからです。

彼は私のひとつの定義です。

私にとってはYということです。このX+bの値が「彼」です。

私の方程式は、Y=X+bです。

Yは私です。どちらも『無』であるとき、私たちは交差し続けることになります。

そのためにはbという「傾き(自我)」を消さなければなりません。

そして、YとXに値を入れることを止める。0を挿入する。

しかし、私たちは無になるわけではありません。

私たちはxとyという値持っていた手前、無ではなく0となります。

ゆえに、私と彼は0と0という存在になります。

あるものを失ったとき、私たちは無に帰すのではなく、ゼロになるのです。

この場合、私たちは数字を持たないがゆえに、交差点を持ち、人生の一点でのみ接触するのではなく、常に一点で交差し続けることが出来るようになります。

つまり、常に一点で交差し続けるとは『無限である(拡大)』ということでもあり『無限ではない(底がない)』ということでもあります。

底がないとは『時間の概念がない世界』です。時間の概念がない世界に無限はありません。

天があるとは『時間の概念がある世界』です。拡大には時間が必要であり、無限が必要ですが、地である底で時間の概念を失った私たちは、拡大に対して時間を費やしていきます。

私たちが「広がっていく」ことになりますが、私たち自身は「時間を失っている」ことになります。

時間を失うことが無限ではない証明ですが、広がっていくことは無限であることが証明されていきます。

私たち自身は成長することはありませんが、時間の概念を持つもの自体は、成長していきます。

私たち自身は「魂の概念を持つ私たち」のことであり、魂は成長することがありません。

なぜならば、魂に時間の概念がないからです。私たちは時を止めた魂となり、これもまたひとつの永遠の定義とします。

魂に時間の概念がないので「未熟な魂」や「成熟な魂」は存在しません。

しかし、これは私の世界においての話です。未熟な魂と成熟な魂という概念がある魂たちは、最後、どのようになるのか——ということです。