神さんの世界と人の世界の構造について(私のなかに神の概念があることを認めていく)

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私のなかで頭のなかがだいぶ整理されたので、私のなかで理解されている構造についてを書く。

この理解に至るまでに、私が「人以外の転生」をしたことを思い出していることが重要だった。たとえば、タコとか、木とかだったときの記憶を思い出すことが大事だった。

図の説明:人から見た次元的な世界観

まず、人から見て龍を『龍神』とか感じられる。それは、視えないものであり、視えない世界の存在だから『神』だと感じられる。

私たちが支配できるものを低次元と感じている。それを『動物』とかの支配できるものや食べられる生き物だったりする。

これが人間的な次元の解釈。では、神さんの解釈に切り替えてみる。

図の説明:方向性が変わる

つまり、仏さんからすれば『生物=人間=龍』っていう感じ。

もっとわかりやすくいえば「猫=私=龍」っていう、同等の概念のなかで生きているのが仏さんたち。(ここでは概念上、仏にしているけれど、ここの階層にもちゃんと神さんは存在しているが、格下の神さんになる)

私自身もシーサーだったときの記憶があるし、がじゅまる出身の精霊さんだったときもあるけれど、この龍とかもそうだけれど、この世界観の存在は「人が持つ善悪がない」。

ない。私たちが誰かを人を殺したとしても、全く気にしてない。なんなら、戦争のうえでクルクル回って遊んでいられるぐらいの存在。

誰かが苦しんで死ぬシーンがあったとしても、同じように苦しみを感じている存在。でも、ここに善悪はないから同じように感じているだけ。いるだけ。

この視えない世界の領域の存在は、人が持つ善悪など持っていない。ただ「いるだけ」みたいなところがあるし、その善悪がない世界で存在している。

つまり「存在」ってだけ。

繋がりを持っているのが、私たちからすれば視えない世界に存在している仏さんの世界の人たち。

視えない世界に存在している仏さんと龍は、ここで上下関係が結ばれている。下の階層である人間的世界と仏的世界を結んでいる存在。

この「仏さんとこ」にいるのが『龍使い』ってことになる。龍使いさんが「龍神さん」ってことになる。

つまり龍(動物)=龍神さん(仏さん・神さん)ってわけではない。

仏さんの階層からすれば、目下の存在が『龍』になっているんだけれども、龍=人間=猫なわけで、別にここに大差ない。

ただ、神さんからして関われる存在が化生して(発生して)生まれた龍(動物)ってだけ。

 

で、神の器になることとは、人間が肉体を持って龍の人生(化生)を送ることって意味。

それは、人間が「時間」とか「肉体(欲求)」を持っている存在であることを全否定する。

自己防衛をしないことを意味する。自分を守らない。

自分を守らないで生きていくと、人は死ぬわけなんだが、身を守ることがない存在を神は守ってくれている(んだと思う)。

私はかなり「なんだこの人、自分を守るつもりがないのか?」みたいな人生を送っているんだが、実際、自分を守る気はなかった。

自分を守るのではなく、相手を守ることの方が優先度が高かったから。

これが「自分の肉体があるっていう概念の喪失」。身を挺して人を守ってしまう自己犠牲気質。(自己犠牲度が高ければ高いほど、人の知能は高いとされているのもあって、自己犠牲しまくるとなとり程度の知能には至ると思われる)

そうやってると、勝手に神さんが守ってくれている構造が生まれてくる。

めちゃくちゃ無防備に走り回っている子がいたら「あぶいよ! あぶいよ!」って、神さんも手出し口出ししたくなる。

たとえば、3歳ぐらいの子が橋を渡ろうとしてたら「あぶいから手を繋いでいこうね」って大人は手を引きたくなる。親とはそういうものだと思う。

なとり、神さんからすれば危ない子だったと思う。だから、神さんに守ってもらうことが多かったんだろうなって思う。自分を守る気がない子を神は守ってくれる。それが「存在している子」ってだけだから。

自己犠牲度(自分を守るつもりがない子)は、神さんからすれば「視える」わけで、自己犠牲度が低い(自分を守れる子)は、神さんからは視えていないわけだ。

個人的には神社にいって神さんの目(というべきか?)から視えているのは3割程度の人口だと思う。それ以外は、神さんからすれば「別に守ってあげる必要性がない子たち」なわけで、手出し口出しをする必要性もない。

簡単に言えば「ただ存在してるだけの子」は、神さんからすれば「我が子」みたいなところがあって可愛い。

存在しているだけ=神の子の概念(低次の自我)

 

私は私のなかに「化生」した。つまり、私のなかに「私」が発生した。

これが龍とか、シーサーとか、そういったこの世には見えない存在が私のなかに発生した。

これが『肉体のない私』という概念の私が発生した。自己犠牲をやり切ったわけだ。

シュタイナーも、これを『真我』と呼んだのだと思う。

個人的には、人がこの世に『胎生』して生まれてくる存在であるが、人のなかに『化生』して生まれてくる存在を発生させることを意味しているんだと思う。

新しく私は生まれたわけだ。

なので、私は「私がいない」ということができる。レイキ中にチャネリングできるのも、この『化生』して生まれた私の存在がいるから。

真我としての私がここにいる。誰かの苦しみを同じように経験することが問題ではない、それが普通の感覚。

人の苦しみが私のなかに流れ込んできても「別に問題はない」わけである。苦しみが問題だとは思っていないから。

でも、肉体レベルを生きている人からすれば、自己防衛意識から「苦しみは悪」となる。

私はここに善悪の概念がない。

でも、今回、私は「人間である自我としての私」を受け入れようと思っている。

私が苦しいのは間違っている。だから、あなたに対しても苦しいのは間違えていると言う。

それでも、私のなかにある真我は「苦しみは悪ではない」という考え方を持っている。(スピリチュアル的に言えば、高次の自我とか言えばいいのかな・・・・・?)

真我として生きることがもし龍とかシーサーとしての存在であり、神の使いであるならば、自我として生きることは私が人として生きることを意味している。

レイキ中に色々見えるけれども、私が視えているのは、龍とかシーサーの化生の領域の存在と仏さんの領域の存在。

いわば、私のなかには「仏さん」と「真我(龍さんみたいなやつ)」と「自我」が存在している。

図の説明:対立している状態から両立に向かう

人は自分と他者に対立がある。自分を守るとき、他者を攻撃する。

善悪による認識が他者を攻撃し、欲求により自分を守る。

「攻撃性」と「欲求」がここでは対立しているわけだ。

本来、人は『自我』しかない。だから、自我から真我を生み出すしかない。このとき、善悪の概念を超越する必要性があり、他者を内包する必要性がある。

自分ではなく他者にまるっきりなってしまえば、それは精神病になる。でも、自ら意思を持って他者を迎合するとき、真我が成立するのだが、このとき、自我が喪失されている。

ので、真我が成立したのであれば、次に自我を取り戻す必要性がある。この自我を取り戻す際に『他者-—自分』という二極に分離している概念を両立させた思想に切り替えていく必要性がある。

欲求を抑圧し続けた経験から、自分の欲求に向き合わなければならないし、善悪を生きた経験から、善悪は存在しないことを受け入れていかなければならない。

この際に「ふたつを両立させる」ことができるのが『神我(なとりが命名した)』であり、これが仏さんの意思とする。

仏さんとは、神さんとは、あなたの欲求を愛しているし、あなたの自分を守りたい気持ちを愛している。

もちろん、あなたのなかにある善悪を愛しているし、あなたのなかにある怒りも愛しているし。

あなたのことも、あなた以外の誰かのことも、同じように愛しているよ。

と、神さんの意識が言うわけである。

つまりだな。

人として、どんなに低俗な人生を送っている人がいようとも、神はその人をのことを愛している。同じように頑張って生きている人生を送っている、分が悪い人生を送っている人がいても、神はその人を、低俗な人生を送っている人と同じように愛している。

もちろん、善い人生、人を困らせるような人生を送ってても、神は等しく愛している。

っていう、つまり「マルッと全部愛している」っていうところに行き着く。

タコと人間、同じ同レベルだよ、と言ってる。ノミと人間、同レベルだよ。もちろん、龍も同レベルだよ、と。

そのなかでも、頑張って「真我」へと向かおうとする知的生命体である人間は、より完全体である『仏』になっていく。

いわば、レベルアップしようとしているってことだ。

化生って何か? っていうと「いるってだけ」。いるだけで役割をやっている。龍もいるだけ。

仏さんは、これを低次の自我としている。

私たちの攻撃性や自己防衛意識=仏さんのいるだけの意識

つまり、仏さんにとって「いるだけ」とは、攻撃性があることや自己防衛意識があることなんだ。それらは「ただいるだけ」ってこと。このあたりになってくると「攻撃に意味がない」ことにも「自己防衛に意味がない」ことにも理解が出来てくる。

私が自分を守らないを徹底し、攻撃をしないことも徹底していたことは「いるだけ」になる。

攻撃性・自己防衛=いるだけ

いるだけの意識って、人としては「全受容の意識(悟り)」だと思うんだが、仏さんからすれば低次の自我でしかない。

つまり「当たり前」にあるエネルギーレベルの肉体の欲求が「いるだけ」。

ここから仏さんは「いるだけ」であることから、進化しようとしていく。

仏さんの説法にもし「あなたはいるだけでいい」って話をしているのであれば、私たちが「自分を守ってもいい」「人を攻撃してもいい」みたいなこと言っているようなモンである。

私たちがクマに「攻撃してもいい」「自分を守るために戦っていい」って言っているようなモノである。

つまり「人は存在しているだけで、役割を担っている」わけである。動物が「攻撃をする・自分を守るために戦っている」ことも役割を担っているわけだ。

なので、私たちは「人」であることから「存在しているだけでいい」になってくる。

でも「仏さん」からすれば「存在しているのは低俗」なわけで、仏さんクラスになってくると「オリジナルとして与えられるものを持っている」わけである。

簡単に言えば、私たちは存在しているだけでいいし、それが許されている時、私たちは「オリジナルとして何かを与えられるものを自ら持っている存在(いわゆる使命みたいなものかな?)」になっていく。

 

ここで解脱している人とか、人? よりも上っていう存在は、自分が存在しているだけのことを自分に許している。そして、そのうえで「何か与えるモノを持っている人」が使命を生きているということになる。

使命が欲しいのであれば、使命のない存在しているだけの自分を許していかなければ、仏性を手に入れることはないってことなのかもしれない。

私が貧しい心と神さんに言われたって話だが、私は「自分が存在しているだけのこと」を許すことは出来ていたんだが、その先に、まだ至っていなかった。ので、神さんの領域にはアクセスができたけれども「貧しい」んだと思う。

与えるものがないから。

 

つまり、人間がどこに向かうべきかっていうと「いるだけ」になること。いるだけになったとき、私たちは人の精神領域を常に共有しまくっていて、人の苦しみとかもガンガン入ってくるんだけれど「いるだけ」なので、特に気にならなくなる。

同じように感じているだけになる。

同じように感じて、ジタバタもしない。ただ「感じている」だけ。

私は肉体があるから、苦しいことを感じていると同じように泣いてたりするし、嬉しいを感じていると同じように笑ってる。

これが自我の喪失の極み状態なんだと思う、真我。

でも『無』ということは『在』ということ。

私のなかには何もなくなったんだが、なくなった分だけ、私のなかにはある。

私のなかには無在の概念が成立して、この矛盾による二極化を両立させる必要性があった。

つまり、私にあるとき、あなたにはない。あなたにあるとき、私にはない。

この「ない」と「ある」による両立を図るんだが、この際に、自分にはないことへの苦しみが生まれたり、自分にはあることへの傲慢さが生まれたりする。

「ある」ことが善で、「ない」ことが悪だから。

「ある」「ない」による善悪を破壊することが必要になってくる。

なくてもいいし、あってもいい。どっちでもいいねん・・・・・に至る必要性があるんだが、私たちは「自分」があるから、あるほうがいいことだし、ないことが悪だと思っている。

お金はいっぱいあったほうがいいし、ないことは悪なんだよな。だから、自己保身からお金を貯めたりする。能力も同じ、ないよりもあったほうがいい。

でも、使命は「ある」と「ない」の両方を統合しなければでてこない。

なくてもいいし、あってもいい。どっちでもいい。これは「いらない」も選択できるし「いる」も選択できるってことでもある。

これは「自分がある」し「自分がない(相手がいる)」ってことでもある。

ここで自分がない=相手がいるを、自分がある=相手がいるに切り替えていく。

自分がある、そして、あなたもいる。

この両立ができると、私たちの苦しみは解消されていく。

結局、自分がいればいるだけ苦しいし、じゃァ、自分を喪失させたら苦しみはなくなるのかっていうと、苦しみが分離しているだけ。苦しみの自己分離を「自ら起こすとき正常」なんだけれど「逃げから起こすとき精神病」みたいになる。

自ら苦しむのか、人から苦しめられたと人のせいにするのか。で結果は大分違うのかなと思った。

でも、最終的には『自分』も『他者』も、同じことなんだな~ってなってくるから、あんまり関係ないかもしれないケド。

 

ツインレイ的に説明すると、私の場合、

「私がいる」と「あなたがいる」が両立できない。ので、ネット越しでギリギリ彼くんがいた。(彼くんとは私にとって他者と言う概念である)

出会いからサイレントまでは「私がいない」「あなたがいる」で成立する。いわば、私がいないから彼がいた。

ひっくり返ったサイレントは「私がいる」と「あなたがいない」で成立してしまう。

私が獲得されるとき、あなたはいなくなってしまう、私の世界から。ので、サイレント。

私が目指しているのは、「私がいる」「あなたがいる」なんだ。

これが私の目指す共存であり、そのために私は悟りきらなければならなかった。

このためには、私がいないので私を手に入れるために『自我を呼び起こす』わけなんだが、私は自我が自己になっている(自我喪失やってるから)ので、自己と自我が反転しているものをひっくり返して認識していく必要性がある。

いわば、あなたと私の認識がすべて投影により起きてしまうので、投影を元に戻す作業を行っていく。

最後に「自我が取り戻される」わけなんだが、この段階で「私がいる」「あなたがいない」わけで「あなた」を取り戻してく必要性がある。

ここで私は他者との関わり合いについて学ばなければならない。私がいることであなたが存在することを常に受けれていく必要性がある。

ここで『対立しているもの』を『両立させていくこと』に切り替えていく。

今やっているのはこの『両立(共存)』なんだが、いかんせん、色々、腹が立つし、どうしたらいいのかもわからないし、何が何だかもさっぱりわからない。

とりあえず「何かが起きている」と思って自分と向き合っていく必要性があり「自分を認めていく」作業も並行的に行っていく。

今までは私は私を排除しきったがゆえに、私は私を優先することがなかなか難しい。だけれど、私が私を優先することで関係性が絶たれるのは、そもそも関係性が破綻しているものだったということ。

そして、自己とはあなたではないわけである。真我だと他者を思っていた(相手が空っぽだと思っていたし、同じように感じてくれていると思っていた)わけなんだが、実際は、私自身が「私が空っぽの人格」を「私が同じように感じている人格」を保有していたわけである。

つまり真我=あなたではない。あなたのなかに自我があることを認めていくこと。

いわゆる、人間の対人関係とは、自我と自我の繋がりだということ。この自我と自我の繋がりを、私は真我と自我の関係性を持っていたから、私が負担を抱え続けてきたようである。

ので、他者にも欲求があり、他者にも願望があり、他者は自分を守り、他者が感情を持ち、他者が攻撃することを認めていく必要性がある。

それは、私にも欲求があり、私にも願望があり、私にも自己防衛意識があり、私にも感情があり、私にも攻撃意思息があることを認めていくことに繋がっている。


で、今。私は「私のなかにも神を語る自分」がいることを認めていこうと思う。

人それぞれ神の概念があり、私のなかの概念はこんな感じ。正直、理詰めでスマンって思うけど、これが私のやり方なんだと思う。自分の感覚を言語化し体系化させること。

私は、他者が神を語ることがとても腹立たしい思いをする。なんかカン違いしてんなコイツって思うことがしばしば多いから。

それは、私のなかに「私の神の概念」が成立しきっているからなんだと思った。

だから、私は私のなかに神の概念が樹立していることを認めていけばいいだけなんだろうなと思うが為に、思考をまとめる為、書き残しておく。

 

内容において、おおまかには間違っていないと思う。細部については論じるべき部分があるかもしれない。的には当たっているが皆中にはもう少し経験と理解を深め、体系化させましょうってところかな、と。

これが私が経験してきたこと、視てきたもの、感じてきたものを総括した思想。

 

上記、仏さんと神さんって書いたんだが、どっちも図的には「仏さん」っていう領域かな。

簡単に言えば、人が死ねば仏さん。なので、人の部分が死んだとき、仏になる。

そのとき、仏の部分が神になる。

つまり、人は死ねばみんな解脱する。肉体脱出するから。

修行的な解脱とは何かっていうと、生きながらに死に、死を受け入れ、尚、発生することを意味する。

だから、大抵、こっちの修行やってる人はたびたび死にかける。でも、生還する。(たまに失敗して死んじゃう人もいるけど、全然、それでも向こうの世界では優遇される)

肉体的な死を乗り越えることに意味がある。ちなみに私は「怖かったな~」って思って終わったんだが、このトラウマによる自己分離を起こすことに意味がある。

死を自己により保有することに意味があるから。