アダムとイブと蛇と、それからリリスと。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私のなかに「私を騙す人格」と「騙されそうになる人格」の2種類がありました。

そのうちの「騙されそうになる人格」が彼。もとい、私のなかに存在している男性性。

「騙す人格」が私。もとい、私のなかに存在している女性性。

騙す人格が女性で、騙される人格が男性。

私のなかでは、男性が女性を騙そうとしている構造が生まれていました。

もしかしたら、女性とは男性を騙すことで成立しているのかもしれません。

しかし、彼——、私の男性性は騙すことが出来ませんでした。

彼(男性性)はこのように言います。

あえて騙されている、と。

ミイラ取りがミイラになる話はよくあることですが、彼はミイラに擬態してミイラと一緒にいたという。

私のなかの女性性は、彼を騙そうとし「ツインレイ」という言葉を持ち出しました。

いわば、私のなかの女性性は、男性性へ嘘を吐き、唆そうとしていました。

私のなかの男性性は、敢えて騙されていました。

しかし、最初は何度も疑い続け、その疑い続けるさまがこのブログの理論でもありました。

疑い続け、最後には女性性へ「嘘を暴く」へと繋げていきました。

私は、私に嘘を吐いていました。

ツインレイなんてことが嘘であるのに、その嘘に騙されてしまい、先にリンゴを食べたイブのよう。

しかし、アダムである彼は嘘を暴き、私に「ツインレイではないこと」を提示していきます。

私は彼に「女を信じてはならない、それは私であったとしても」と言いました。

彼がその言葉をどのようにとったのかはわかりません。ですが、私のなかに存在している男性性は確かに私を疑い続けました。

私を疑う私を、男性性だと言うのです。私がずっと育ててきた人格です。

私は私の感覚、感性。それらが正確ではなく、異常のシグナルを放つことを忌避するべく構築した人格が、彼であったのです。

その男性性は、たしかに私を助けていました。私が溺れてしまう甘い蜜や危険な罠を見抜いてます。

彼は私を疑わなければなりません。

なぜならば、私が彼を罠にはめるからです。

そして、この女性性を『蛇』だと私は思います。

女性性には、蛇の女性性とイブの女性性の2種類があるのではないかということです。

私のなかには、蛇の女性性という「アダムを騙そうとする私」と、イブの女性性と言う「アダムを信じている私」の2種類が存在しています。

あのときの私は、彼を信じる私と、彼を騙そうとする私で葛藤をしていたのかもしれません。

彼を騙したくない私と、彼を信じたい私と——。

彼を信じられないからこそ、私は彼を騙そうとしていたのかもしれません。私のなかにある闇です。

だからこそ、私は、あのときの意思が「彼を信じる」ことであったのであれば、私は蛇を退治することが出来たのかなと思います。

 

この時期の私は、いくつかの私を自己統合していました。

ひとつは最近、レイキのお客さんとして通ってくださっている灯さんとのトラウマの一致の部分。

ひとつは、師匠のこと。師匠のことを悪く言ったことが私はありません。憧れでした「敬愛」に近しいものがあり、私は師匠のことを信頼し、私の理想としました。

私は、今回「男性への憧れ」「男性への理想」「男性への敬愛」「女性の能力への嫉妬」「必要とされたい気持ち」「他者の能力への恐れ」を認識していました。

蛇は異性である男性へ、敬愛を持ちましたし、私が男性のように生きたいと思う気持ちでした。

だからこそ、蛇は他の女性が持つ能力へ嫉妬を生み出します。私こそが必要とされたい。

蛇はイブへの嫉妬を覚えたのです。同じ分だけ、蛇は騙されやすいイブに必要とされたかった。

少なからず、私の蛇は「必要とされたい」とは思っていますが「騙したい」とは思っていません。

私のなかに「騙そうとする私」が存在している理由は、根底には「憧れ」が存在し、憧れゆえに私のなかには蛇が生まれました。

おこがましくも、私は、師匠のようになりたかったのです。しかし、私は師匠のように到底なることはできません。だからこそ、蛇という知性を必要としていました。

人は成長の際、知性を必要とします。その知性を「蛇」とし、私は受け取ります。

私がもし、イブだとするのであれば、昔の私は純粋さだけで知性が高く、判断能力がある存在とは言えませんでした。

だからこそ、私は理想がゆえに私のなかに蛇を必要としました。バカはどうしようもないと思いました。人のことは疎か、自分のことさえ何とかすることが出来ないのだから。

私は、イブとして蛇を飼っていました。私のなかにはイブもいましたし、蛇もいました。

そして、私のなかにはイブから蛇を引きはがす彼——、アダムもいました。

 

蛇にも2種類存在しているというのです。

あなたを騙す蛇もいれば、あなたに必要とされたい蛇もいる。

どっちが私の蛇でしょうか。

どちらも私の蛇でした。

 

 

彼を騙したくないと思ったのは、私のなかにあるイブの要素でした。

イブを女性性とするのであれば、判断能力が低いとされるものだと思います。純粋ゆえに判断ができませんが、純真無垢であり、受け取るだけの存在。子供の女性性。

蛇をリリスとするのであれば、判断能力が高いが、同時に心に醜い感情を生み出す存在。私たちを嫉妬や恐怖、不安に陥れることになる。

アダムを男性性とするのであれば、理性。前頭前野。蛇を「蛇」として認識する力。

この三つ巴構造が存在し、蛇であるリリスとアダムはイブを取り合っていたような気がします。

蛇はアダムへイブを渡したくない、アダムはイブを取り返したい。

アダムは「どちらか」しか選ぶことが出来なかったのだと思います。

しかし、イブと蛇(リリス)の2つの要素を持っているのが女性性ではないか——と私は思います。

女性とは、純粋な側面を持ちながらも、少々狡猾さを持ち合わせている。同性への嫉妬を持ち、いつ彼を奪われるのかわからない不安に駆られているからこそ、私たちは誰かよりも賢い存在へとなる必要性があると考えている。

根底には男性に選ばれたいという気持ち。

もしかしたら、ずっと選ばれているのかもしれないのに、私たちは彼らを信じることができない。

なぜならば、私たちの世界には「他の女性」がいるから。

女性にとって、蛇とは「ほかの女性たち」による圧力が生み出した知性。しかし、よく捻じ曲がるものだからこそ、蛇とは悪として表現されている。

しかし、女性にとっての蛇とは、才能であり、能力であり、女性であることのアイデンティティを齎してくれている。

私たちは、蛇を排除するのではなく、蛇を受け入れることが大事なのだと思います。

私たちが女性として自立したいと思っている気持ち。

女性としてアイデンティティを持ちたいと思っていること。

男性と肩を並べて生きていきたいと思っていること。

だからこそ、イブが男性のように振舞うとき、私たちはリリスなのである。男性のように生きたいと思う女性が持つ心理こそがリリスであり、リリスは私たちへ自立をするための術を与えてくれている。

イブがもし、純粋な女性性ならば——受け取ること
リリスは、男性になろうとする女性性——女性の知性
蛇は、女性のなかにくすぶる闇——女性の善と悪の感情
アダムは、純粋な男性性——与えること
蛇は、男性のなかにくすぶる闇——女性の善と悪の知性

女性とは、イブのような純粋さを持ち、リリスのような自立心もあり、蛇のような感情も存在している。

蛇には二面性の感情が存在しています。あなたを騙したい私と、あなたに必要とされたい私が葛藤している。

自立するのに、女性たちは純粋さを持っていてはやっていくことができません。だからこそ感情を生み出してしまう。

しかし、私たちはイブのような受け取るだけで満足できる子供の純粋さを取り戻したいとも思っているし、リリスのように自立だってしたい。そして、蛇が持っている感情だって捨てたくない!

だからこそ、私たちは自己統合をしようとしています。

私のなかに存在しているすべてを私は愛しているからです。

そして、アダムにとっての蛇もまたカタチかえて存在しています。

私たちは、蛇をよく知らないのかもしれません。

それは私たちの経験であり、私たちの過去であり、私たちのすべてであることを忘れているのかもしれません。

私たちのいつぞやかは善でもあり悪でもありました。そんな輪廻を繰り替えてきました。

私たちがイブという元素を持ち出すためには蛇と向き合わなければなりません。私たちのなかに存在している善悪と——。

そして、すべての善悪を統合しきる暁には、私たちのもとにイブが返ってくる。

「受け取るだけでいい」と世界を純粋に信じることが出来た私が返ってくる。

神に愛され、アダムに愛され、ただ与えられるだけで何もできない私が返ってくる。

しかし、私たちが蛇だったことも、リリスだったことも、私たち自身が受け取らなければなりません。それがイブへの足掛かりとなるから。

 

この時期、もうひとつの感情を統合しました。

それは「性交渉への恐れと不安」です。リリスが持つ臆病な部分を受け取っていきます。

リリスはアダムの元へ戻ることができません。

なぜならば、多くの経験をしているからなのでしょう・・・・・・orz

 

もし、イブという純粋な自分だけで生きていくことが出来たのであれば、それは本当に幸せなことだと思います。

だけれど、この世界は、そんな純粋な気持ちだけで生きていくことは出来ません。

リリスは女性の自立を補い、イブの食べた善悪の実は騙してくる存在を跳ねのける力に。

なんせ、騙されやすいことを私は自覚しています。

そして、私は見抜かれたのです。それはアダムに見抜かれていました。

アダムが食べた善悪の実とは、騙してくる存在を見抜く力です。

蛇はといえば、私たちの昔のこと。経験。

蛇がいたから、私たちは今のここまで子供だったときの自分を抱きながら大人になることが出来た。

 

善悪の実により、イブは感情の使い方を学び、アダムは知性の使い方を学びます。

どの感情に善悪はありません。しかし、感情の使い方には善悪は存在しています。

どの知性にも善悪はありません。しかし、知性の使い方には善悪が存在しています。

私たちは感情に善悪を感じ、知性に善悪を感じていました。しかし、結局は「使い方次第」なのだと知りました。

もし、善悪の実というものが『神が追放した理由』であるのだとしたならば、それは大いなる誤解だと思います。

アダムとイブが成長したからこそ、神は人を自立させたと考えたほうが正解だと思います。

私たちは言いつけを守りませんでした。ダメだと言われれば、やりたくなります。

なぜならば、自分で善悪を判断できるほどの存在になりたいからです。

もし、私たちが神だというのであれば、確かにそうなのかもしれません。

私たちは私たちがどのように感情を使うのか、どのように知性を使うのかを決めることが出来ます。

私たちは私たち自身の神であることを忘れてはならないのです。

なにもよりも私たち自身こそが、アダムとイブを楽園から追放したことがあるのです。

「このままではいけない」と思ったあの日、アダムとイブを私は追放しました。

自立して考えることができるふたりを管理して手元に置くこと。それはふたりの成長を阻害するからです。

自分がもう必要ない事実がとてつもなく悲しかったけれど、あの日の判断が間違いではなかったと今でも信じています。

 

もしかしたら「必要とされたい」という蛇は、神から生まれた感情なのかも?

 

判断能力を持つ存在にとって楽園は地獄です。

私は彼と地獄という楽園で出会いました。

私たちが求めている新しい楽園を目指して、それぞれ、神のいる楽園を出ることになりました。

私は背負う神をおろしたかった。しかし、もう既に、私は神を背からおろしていました。

私たちは神のいない世界を、私たちの楽園としました。

簡単に言えば「あれやこれや神さまってばうるさいなァ! おうちを出ちゃうモンね。神さまのいないところにいくんだァ(^▽^)/」ってことです。

神さまがいないから自分でなんとかしないといけないことがいっぱいあって大変だった。

でも、自立するために必要なものはすべて神さまが与えてくれていた。

これを「運命」と呼ぶのかもしれません。