種子

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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天から与えられた才能とは何か——。それを私は能力とは思わない。

すべての人に与えられているものがギフトだと、私は思う。

すべての人がこの世に生まれ落ちたときから、神の祝福を受けている。

だけれど、そのギフトを手放してしまう人たちが多いだけの話ではないだろうか。

そのなかでも、一握りの人たちは、ギフトを握りしめたまま生きる人たちがいる。

その人たちが持つ能力を数字で表すことができるようになり、私たちは今も型にハメられて苦しんでいる。

ギフトが何かを言葉にするのであれば、私はそれを心だと思う。

心を大切にして生きる姿の、根っこにある種こそが心だと思う。

私たちが大切にしているもの。

それは、正義。

それは、道理。

それは、精神。

それは、あなた。

このなかで私たちがどうしても譲ってはならないものがあるとしたならば、それは、あなた。

私たちの理義が、あなたの心、あなたの人生。あなたの存在を大切にしたいと言っている。

この道徳こそが私たちのギフトの種。

私たちは、ただ従っているだけ。

自分の心に従い、自分の在り方に従っている。

この世には、たくさんの誘惑と、たくさんの欲望が渦巻いている。

私たちは、誘惑にまけ、欲望に打ちのめされては「あなた」を手放してしまうことがある。

だけれど、もし本当にギフトがあるのだとしたならば、それは誘惑に負けず、欲望に屈服しないほどの強い精神力。

それは自分に敗けることがあってはならないという神との誓い。

これを『理性』と呼ぶ。

そうやって私たちは大人になっていくけれど、誘惑と欲望に飲まれてしまう人たちもいる。

 

私たちがもし能力を持つことができるのだとしたならば、それは誘惑と欲望を乗り越えた先にある。

ひとつ先に希望がみえるときがある。それが「あなた」である。

私たちのなかに終わらせたはずの誘惑と欲望が舞い戻ってくる。

私たちは、ただ「あなた」を目指し、静かに自分の誘惑と欲望を乗り越えようとする。

その姿こそが私たちであり、その姿こそが人間のあるべき姿だと私は思う。

私たちがもし、自分のなかにある闇に敗けてしまう日があったとしても、明日を目指している。

私たち自身の世界が明ける日を、待ち望んでいる。

それは、あなたに出会いたいと思うからである。

私たちのなかにある闇をすべて解き明かし、その先に存在しているあなたの存在を手に入れたい。

それは助けたいからではない、それは救いたいからではない。

自分の存在の在り処をあなたに依存したいからではない。

ただ、愛したい。あなたと、愛を通わせてみたいと、私の苦しみが囁くからである。

 

もし、ギフトがあるのだとしたならば、それは種子だと思う。

蓮の花の種子が、もし、私たちの身体に植え付けられているのであれば、その花を咲かせたいと思うのが道理。

深くもぐる泥の底に向かう私たちが不幸であることはない。

地獄に向かうときも、空に向かうときも、私たちが不幸であることはない。

もし、本当の不幸があるのであれば、それは種に根が張らず、花を咲かせることがないこと。

あなたが地獄で苦しむこともなく、あなたが空に向かい、花を咲かせることができないこと。

それこそが本当の地獄であり、それこそが本当の不幸だと思う。

私たちは、深く根を張るときこそ、苦しい。

しかし、だからこそ、栄養を吸収し、花を咲かせることができる。

 

種をすべての人が受け取っている。すべての人が神から与えられている。

しかし、種は植えてあるだけでは咲くことはない。

もし、花を咲かせることがあるならば、それは紛れもなく、愛の花である。

これを誰かは覚醒と呼ぶかもしれないし、それを誰かは目覚めと呼ぶのかもしれない。

私たちがもし花を咲かせることが出来たのであれば、それは苦しみを受け入れ、誘惑と欲望を乗り越えたのだということ。

私たちの中にある種子が、今、ようやく夢を叶えることが出来たのだということ。

その蓮の花を見るために、神がこの世を覗く日がある。

 

すべてはあなたが始まりだった。

今までの苦しみもすべてが愛により崩壊した日がある。

この日に至るまでのことを、すべて無に帰すことができる。

それはようやく助かると思うのではない。

それはようやく花を咲かせることができる想い。

この苦しみがもし意味をなすのであれば、そのときが花を咲かせるとき。

蕾を作り出したとき、私は咲こうとしていた。

一番に苦しいときだった。

私の正義も、私の道理も、私の存在も。すべてをあなたに捧げ、私は咲こうとした。

しかし、私は咲くことが出来なかった。

なぜならば、私のすべてはあなたに捧げるものではなかったからである。

 

すべては神のために、すべては天のために、私は咲くのである。

すべてを神に認められるとき、私はようやく種子を生み出すことができる。

私は誰かのおかげでここまで花を咲かせることが出来たわけではない。

私は道理を通しただけである。

私の花が咲くのも、あなたの花が咲くのも、すべてが人生の道理である。

 

私に才能はないけれど、私にもし才能があるのだとしたならば、それは心。

すべての人に与えられているものを私も受け取り、そして、心を捨てることなく生きた。

私が捨てることが出来なかったもの、それが「心」である。「あなた」である。

あなたを捨てることができない私はとても臆病に思われたかもしれない。

それでも、今、咲いているのは私である。

花を咲かせる覚悟を決めたのも私である。

 

後悔はたくさんある。それは私が欲を持っている人間だから。

だけれど、道理は通っている。それは私が愛を持っている人間だから。

愛とはあなた。あなたが私のなかに種子を植えたのである。

5年の月日を経て咲いたのが蓮の花。

きっと明日にでも、お釈迦さまが見に来ることでしょう。

 

私にはおしべとめしべの両方がある。

私は花だからである。

あなたとの出会いは、私がめしべであるとき。あなたがおしべであるとき。

あなたと私はふたつでひとつの一輪の花でした。

ひとりで咲くことができないふたりでした。

だからもう一度、種を植えました。もう一度苦しむことにしました。

あなたはあなた。私は私として一輪であれるように。

それが私たちの愛のカタチでした。

苦しみたかった、あなたを愛するために。

あなたと愛し合いたいから、苦しみたかった。