ツインレイの統合の手放しをする、彼にサレンダーし手放していくこと。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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ずっと負担だったものを手放していきます。
負担を目隠しするものは、躁人格であり、ある種テンションを高く保ちながら「負担を感じない」ようにしていました。
これは子供時代からの習慣のようなもので、負担を抱え続けてきたのだなと思いました。
ツインレイの統合、これがとても負担でした。
ツインレイの統合の意味がわからないことをしなければならない。これが負担であり、私は統合がしたいわけではありません。
ですので、私はツインレイの統合を手放しました。
ツインレイで負担の象徴といえば、経済的自立などがありますが、こちらも負担だと思います。
負担であるのであれば、それは不要なものだと思います。
しかし、不安であるならば、それは不安と恐怖を取り除いて「手に取る」ものだと思います。それはやりたいからこそ不安なのだから。
ツインレイのことは、今、何も感じないのと、結婚するのは彼であることすら感じられないです。
自分についているシールを剝がそうとしていました。
でも、全然はがれませんでした。はがれなくて、最後はもうここにシールがあることを認めました。
すると、シールがはらりと剥がれました。必要なのは「なにもしないこと」でした。
彼のことを忘れようとしていました。
彼と離れたんだから、もう忘れよう。忘れたいと思っていました。忘れようとすることをしていました。
しかし、全く忘れられなくて、最後は「忘れようとすることをやめる」ことにしました。
このときの私は、自分のなかにいる彼がここにい続ける覚悟を決めました。
それは私にとって、これから先、彼以外に好きになる人はいないという覚悟でもありました。
この先、一生の独身の覚悟のようなものです。
しばらく私は何もしませんでした。
彼と連絡を取ろうとしたりとか、自分のなかにいる彼を消そうとしたりとか。
行動をやめ、心の活動もやめました。何もしませんでした。私は諦めました。
これを「サレンダー」と呼ぶかもしれません。
その後。それは今の私ですが、今の私のなかに彼は存在していません。
未来にも彼は存在していません。
「次」という言葉のなかに、彼さえ含まれていません。
シールは剥がそうとするから剥がせず、剥がそうとせず放っておけば、いつの間にか剝がれている。
その「いつの間にか」が今だったようで、ようやく私にベッタリとくっついていたシールが剥がれました。
私はずっと足掻いていました。しかし、最後にはサレンダーをして諦めました。諦めたからこそ、シールは剥がれました。
私たちは、色々な負担が存在しています。
やりたいことをやっているときの私たちは負担を感じません。
そして、やりたいことは人それぞれ違います。
私は母親になることは不安ですが、負担ではありません。しかし、母親になることが負担の人もいるのではないかなと思います。
経済的自立についても負担になる人はいるかもしれませんが、負担ではない人もいます。
この世は持ちつ持たれつ。負担にならないものを持っているのであれば、その役割を担えばいいと思います。
もし、魂の伴侶。すなわち、自分の人生において最も貴重となる伴侶は、私たち自身を負担に感じず、相手に負担をかけることもありません。
私たちが持っている負担ではないものの種類が真逆であるからです。
不安な存在は私です。負担な存在はあなたです。私たちはあなたを背負わずに、あなたに依頼します。
そんな人を受け入れるためには、私たちは「何が不安なのか」「何が負担なのか」を理解せねばなりません。
不安なものは恐怖を乗り越える必要性があります。
負担なものは手放していく必要性があります。
最終的には、私たちは「やりたいことをやっている」「やりたくないことを自覚する」ことに繋がっています。
そして、やりたくないことを自覚する負担のなかに、運命の相手に繋がる鍵が存在している。
私たちは、自分をよく理解するなかで、運命の伴侶を探し当てることが出来ます。
相手に負担を押し付けるのではなく、自分ができることをやればいい相手と結婚する。
それが私たちの目指す素敵な結婚の姿をしているような気がします。
この時期の私たちが、もし、負担に目を向けることがあれば、きっと、その先にいる誰かへの道しるべを探しています。
最後には、私たちが抱えてきた荷物を誰かに押し付けるのではなく、お互い、背負える荷物を交換することができるようになる日がやってきます。
私たちは好きな人に負担をかけずに生きていきたいですが、もしかしたら、相手は負担になんて考えていないのかもしれません。
自分がその分だけ楽になるのであれば、自分にも何かを抱えられるだけの荷物があるはずです。
『共に生きる』とは、そのようなことなのかもしれません。
つまりはわからないのだということ。相手のことなんてわからない。
わからないのに、勝手に相手の負担を想っての行動をとるのが人が持つ情けの在りどころであり、私の失敗です。