ノイローゼ・ツインレイ、天国と地獄の行き来を止める。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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沖縄で台風がきたので、もう一泊をお願いする。
引用:夢見│ドン
自分のなかにあるものが『ノイローゼ』なのかなとも思ったので、その件をば。
ノイローゼとは、寝ても覚めても頭から離れないものがあって、それにより心身がまいってしまうわけなんだけれども、病気とはいえるほどのも明確なものがない——みたいな感じのイメージで、ここでは使用する。
私自身、彼のことが頭の中から離れなかったし、その件で、ずっと書き続けてきたんだけれども、その内容はずっと、天国と地獄を行き来するような内容だった。
天国にのぼってみれば、ある黒点を見つけてしまい、地獄に落ちる。
地獄という絶望のなかで、ある希望を見つけてしまい、天国に昇る。
気分が躁と鬱を繰り替えてしていく。かわいく言えば、一喜一憂って言葉があるんだけれど、それが『絶望』と『希望』を行き来している。
もし、希望が霊的なものに見つかるのであれば、それがルシファーであり。もし希望が理論のなかに見つかるのであれば、それがアーリマンである。私は完全にアーリマンの傲慢さを使いこなすために色々やっているとしか言いようがない気がする。
自分の力を使いこなすためには、先ずは「自分の力の使い方を見極める」という課題が出されるのだとは思うが。
とはいえ共、このノイローゼは、寝ても覚めても彼のことであり、考えることと言えば彼との希望と絶望である。
これを『中庸せよ』と言われているわけなんだが、希望と絶望とは『願い・望み』というものが私のなかにあるのだということに気づく必要性がある。
私は、私の願いに気づき、その願いが「叶わない」ことを受け入れていく必要性がある。
いわば、私の場合のノイローゼは「願いが叶う」と思っているからこそ、願いが叶わないがゆえにノイローゼになっている。
根っこにあるものは『悲しみ』である。
ただ、この悲しみに触れることが出来ればノイローゼは終わる。
天国と地獄を行き来する私は、ただ悲しかっただけ。
だから思考が展開される。
思考は、天国にいれば地獄に向かおうとするし、地獄にいれば天国に向かおうとする。
その道を見続づけるけれど、どれも、正解ではない。
私たちのなかに「天国」もなければ「地獄」もない。
あるのは、ここにある『事実』というものだけ。
その事実により生み出される悲しみをただ受け取りそこなっているだけ。
けっきょくは、自分の望みが叶わなかった世界線のうえで私たちは、ただ泣いているだけ。
「そうじゃない」と思っているんだけれど、でも、現実は「そうである」ということ。
思った通りの未来にこれなくて苦しんでいる。
現実はただここにあり続けていると言うのに、その現実を直視することが出来ていないだけ。
だから、結局は「現実を見よ」ってことなんだと思う。
現実を見ることが出来ていないから、私たちは「天国と地獄」という世界へ進んできてしまう。ここでは天にも昇る思いを経験することもあれば、地に落ちるかのような落胆を覚えている。
私たちがただ現実だけを見つめることが出来れば、そんな思いに振り回されることもないんだろうけれど、それでも、私たちのなかには『願い』がある。
この願いを叶えることができなかった悲しみの世界線を進んでいる私たちがいる。
ただ、悲しかっただけ。願いが叶わなくて悲しかっただけ。
願いが叶わないことが、天国にも上る想いも生み出すし、地獄に落ちるような想いも生み出している。これがノイローゼを生んでいる。寝ても覚めても忘れられない状態になっている。
この『想い』を閉じていく必要性があり、大事なのは「自分の願いを明確に理解すること」であり「悲しみに触れること」なのだと思う。
私の場合は、この悲しみは後頭部に詰まっていた。
もうホント「ただ悲しい」ってだけ。