私はみんなを選び、彼は私を選ぶ。
少し前に、私の案内役が私を「みんな」の元に案内してくれました。
実はこのときに書けなかった内容があります。
受け止めきれなかったというか。
それは「もう少ししたら彼くんもくるよ」と、案内役に言われたことでした。
当時の私は彼を選びました。彼はみんなを選びました。
そして別れました。
今の私はみんなを選びました。そうやって私は「普通の人」になっていきました。
特別を手放して、普通の人になって、みんなの中に入っていきます。
そして、あとから彼がやってくるというのです。
彼は私を選びます。そして「普通の人」になっていきます。
何も持たない、どこにでもいるような男性となって、私の元へやってきます。
アセンションとは、普通の人になることで、特別な力を手放すことを意味しているのだと思います。
それは、子供が持つ不思議なパワー。
ですが、彼を求める私は特別になろうとして、みんなを求める彼は特別になろうとしていた。
子供のままであろうとする姿でした。
不安と恐怖でいっぱいだったのだと思います。
だけれど、不安と恐怖を乗り越えた先には、私にとっては『みんな』がいて、彼にとっては『私』がいるのだと思います。
彼は少し遅れてやってきます。
なぜならば、私が先に普通の人になることで、彼はようやく私の元へたどり着けるのです。普通の人として、ここにくる。
私が先にたどり着いて、それから彼がやってくる。
あのときの私たちは『どっちか』しか選ぶことが出来ませんでした。
みんなを選ぶのか、それとも彼を選ぶのか。
どっちもを選ぶことが出来ませんでした。
それは私たちが傲慢で、どこにでもいるような一般人になりきれず、特別でありたい意識を手放せずにいたからです。
あなたの特別でありたい私と、みんなの特別でありたいあなた。
私は、みんなを選びました。彼は後からやってきます、私を選ぶからです。
私は私を選ぶ彼を選びます。そんな彼はようやく、みんなを選ぶことができます。
アセンションした先の世界は、とても平和だと言われています。
その平和に「特別なもの」があってはいけません。
その人個人の中に傲慢さがあるとき、私たちの社会は傲慢さによって優劣社会へと陥るからです。
私たちの自意識は「普通の人である自分」を常としているからこそ、争いのない関係性を構築していきます。
私自身のなかに自分が特別である意識も、誰かが特別である意識も持っていてはならないのです。
だからアセンションをしたならば、私たちは『自分が持っているという特別視』という子供時代を終えて、本来あるべき、普通の自分へと戻ります。
それは子供が描くネバーランド、王子様が助けてくれるようなお姫様、特別な力を持って誰かを助けるような救世主となれる自分を終えていくことでもあるように思います。
私たちはどこにでもいるような、くたびれた大人なのです。しかし、それを受け入れるにはまだまだ心の土台が出来上がりきっていないこともあるのだと思います。
私は特別では無い自分として生きていきたく思います。自由になれるからです。
彼がもし私の元へたどり着くことがあったのであれば、それは彼が特別から解放され、自由になったからです。
これは私の中の私が「彼はあとからくるよ」と言っていたから書いていますが、ほんとのところはわかりません。
しかし、私は彼がいなくても平然とした日々をこれからも送ります。
みんながいてくれるからです。
そして、彼には私しかいないのかもしれません。そのような仕組みだからとしか言いようがない。