何をやっていたんだろう・・・・・・(愛という思い込みの解除)

2024年12月3日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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何をやっていたんだろう。

そう思いました。

愛してた、愛してた、愛してたって私は泣いていた。理由はよくわからないんだけれど、愛してたんだって。

で、泣いてた。ここ数日はもっぱら愛していた記憶を浄化していたんだけれど、ふと「にんにくチャーハンちゅくってたーべよΨ( 'ω’* )」と思って、真夜中にフライパンを振っていた。

レイキをしていると「食べたい」っていう欲求が度々出てくるのである。

食べ終わって食器を洗っていたら「何をやっていたんだろう」と思った。

思い込みのことである。

自分なりに『こうだ!』と思う道に進んできたつもりではあるんだが、別にそこまでしなくてよかったっていうか。

無理して我慢だってしなくてよかった。他にもいろいろと、思いこんでは無理をしていた部分があったんだと思う。

我に返って「何やってたんだろう( ˙ω˙ )」って思ってしまった。

仮想の信仰というか。別にそんな頑張らなくてもいいのに頑張って無理してた。

そんなの要らないんだよなって思った。

その思い込みは、ただ誰かを愛していた経験だったんだと思う。

愛してた。ただ誰かを愛するために私は思い込みを生みだした。そうじゃないと誰かを愛せなかったから。

それは悲しみである。

悲しみは私が誰かを愛する力を生みだし、そして、その愛を私は信じていた。

何やってんだろう、バカみたい。

でも、愛おしいとは思わない?

悲しくて、これ以上に誰かに同じような思いをして欲しくないから、私の中に愛という信仰をうんだ。

その愛は確かに自己犠牲ではあったし、私が信じている愛でしかなかったけれど、一生懸命に人を愛して生きてきたんだなって。

思い込みと、信仰と。そこに能動的な愛があった。

守りたいものがあって、大切なものがあった。自分を犠牲にしてまでそうしたかった人たちがいる。

これ以上に幸せなことはないでしょう。

 

私が持っていた信仰は、愛という信仰である。

個人的には人間らしく、好ましいと思う。嫌いにはなれないし、そんな私がやっぱり私は好きだと思う。

愛の裏にある悲しみ。

その悲しみがすべて癒えたとき、本当の愛がわかると思う。それまでは自己犠牲でしかないけれど、でも悲しみが癒えれば、それは犠牲ではなく愛になる。

すべては犠牲ではなく、愛だったといえるだろう。

彼を愛した全ても犠牲ではなく、真っ直ぐな愛だったといえるだろう。そんな日を私は待っている。

 

 

幸せな人生だったなと思いました。

自分のこと以上に大事にしたい、守りたいって思えるような人に出会えて、それを幸せっていうんじゃないかな。

自己犠牲は愛じゃない。

でもさ、自己犠牲が愛じゃなくて、じゃあ、自分のこと以上に誰かを愛したことがない人が「愛している」って言葉と、自己犠牲的に誰かを愛して来た人の「愛している」の言葉と、どっちのほうが重みがあるんだろう。

なんか、自己犠牲は愛じゃないけれど、自己犠牲すらしたことがない存在に愛を語られても、信じられないよな。

自分のこと以上にあなたを愛しているって、誰かを守ってる。

自己犠牲って誰かを守ってきたってことなんだよな。

自己犠牲したことがないって、自分よりも大切な存在がいなかったってことでもあるんだよな。

なんか、自己犠牲は間違えてはいるけれど、でも、大切な人が誰もいないよりも充実した人生だなって思った。

自己犠牲は間違えているって他者犠牲の人はいうけれど、でも、自分のこと以上に大切な存在がいるってことは悪いことではないよね。

私は自分のいかなる人生をも肯定するよ。

だって、私の人生は大切なものでいっぱいだから。そこに悲しみがあったから、私は自分を乗り越えてこれた。

自己犠牲。これが愛じゃなくて、なにが愛なんだろう。

多くが机上の空論か、なんなら詭弁だ。

自己犠牲は間違えている。いいや、正しいよ。

私の選択は正しかった。自分のこと以上に大切にする経験と、そんな存在を私の中に生み出したんだから。