本当の自分とは『無』という存在しない自分である。
なりたい自分になる為には本当の自分を否定すること。否定から肯定される自分を構築することが「なりたい自分」となる。
なりたい自分とは社会的な側面を持つアイデンティティの話でもあって、また、なりたい自分になれたという自負があり、ようやくなりたい自分という概念が成立する。
憧れた自分に到達する。これがなりたい自分。
憧れた自分になれたとき、私たちは振り返って本当の自分が否定されていることに気づく。
憧れを目指す自分と本当の自分は同一では無い。
本当の自分を否定するから憧れが生まれ、憧れに近づく努力を経て私たちはなりたい自分になるのだ。
憧れの自分が成立しきるとき、私たちは本当の自分と分離する。
これが私のサイレントの始まりのときでもあった。
憧れの自分になれたとき、私は彼と離別した。もちろん、彼も憧れの自分になれたのかもしれないね。
それは本当の自分との離別でもあった。
私は本当の自分を『発達障害』とか『精神障害』とか思ってたんだけど、凄くネガティブな印象しか自分に抱いていなかったんだなって思った。
常に自分に成長が遅れていることや、理由もなく死のうとしたこと。今ならば、理由がわかることも、私は人として劣っているっていう感覚を持っていたから『なりたい自分』『憧れの自分』を目指したんだと思う。
でも、本当の自分って存在しないんだなって思った。
つまり発達障害だとか精神障害だとか。そういうものでさえも、私は他者からの印象を『自分』として捉えていたんだ。
私は発達障害でもなければ精神障害でもない。なんなら私はギフテッドでもなければエンパスでもない。
本当の私は何者でもないのだ。
本当の自分というものを型にハメる必要性はないんだけれど、そうやって型にハメては自分はダメなのだと落ち込んでいる自分がいた。
私は何者でもないし、何かの肩書きをいかなるものであれども私を『私』としての表現するにはすべてが足りない。
私は私でしかない。
本当の自分とは『何者でもない』のである。
私はギフテッドでもない。
私は発達障害者でもない。
私はエンパスでもない。
私は精神障害者でもない。
私を何かの型にハメることは出来ないし、本当の私は『私』でしかない。
ネガティブな自分(本当の自分)――ポジティブな自分(憧れの自分)
こんな風に私は自己分類させていたんだなって思った。
ネガティブな自分は自分が認め、ポジティブな自分は色んな人が認めてくれて。私はどちらの自分も『自分』だと認めた。
そして、どれもが自分では無いのだと――。
自分とは何者でもないのである。
何者でもない自分とは『無』である。
赤子の自分というか。
私たちは何かしら肩書きをもって、誰かと繋がろうとするとき、それは「社会的な関わり」である。
私はずっと社会的な存在だったのである。
何者でもない自分。それが本当の自分。
何にもないんだよ。自分を形成する、自己紹介の為の『何か』が何もない。
そこにあるのは自分の名前だけのような気がする。でも、それさえもなくなったならば、私たちは本当に無で「霊」なんだろうな。
サイレントの始まりのとき、私は本当の自分がばらばらになった。
バラバラになったから、本当の自分が無になって、彼はいなくなった。
私はなりたい私になるかわりに、彼を失った。
でも私は彼を手に入れたわけではない。私は彼を失ったのではなく、本当の自分を失ったのである。
それはネガティブな自分のことだった。
つまりあのとき、私は発達障害と精神障害である自分ではなくなったのだ。
私は未だ本当の自分を手に入れたことがないのだから、私は何も失っていないのである。
そもそも「本当の自分」など存在していないのである。
私たちはいつだって偽りを持って生きている。
ありのままの自分、本当の自分。結局は偽りの自分だ。
私たちは無でしかない。
この地球で多くの洋服を着ているだけの虚空。
私は『無』だ。何もない空っぽ。
空っぽの自分、何者でもない自分を受け入れる。
偽りのない自分は存在しない。存在しない私が私なのである。
本当の自分(存在しない私・無)――憧れの自分(存在する私)
私は無と友達ᐠ( ᐛ )ᐟᐠ( ᐛ )ᐟ
私はネガティブな自分を切り捨てたのだ。
彼くんは存在しない。
どこにもいない。
存在しない存在を存在させる。
創造・・・・・・(っ’-')っ📦✨
創造は無から生じる。
彼くんは私によって創造されるのだ( ˇωˇ )
よく発達障害でもいいんだよとか、精神障害でもいいんだよとかね。優しさがあるかもしれないよ。
当人は困ってんだよ、その優しさで存在が許されたとしても、自分で自分のことで困ってんのね、戸惑ってるの。
あんたはいいよ、発達障害として、精神障害として生まれたわけじゃないから。
こっちは全く良くねえんだよ。
自分で自分のことで困ってて、どうやったらいいのか、すんげえ悩んでんの。社会適応がすんごい難しい気質でうまれてさ、困って悩んでんのね。
存在が誰かに許されても、困ってることには変わりないんだよ。
なぜ知らんが、突発的に死にたくなるんだよ。自殺未遂だってざらじゃない、生きているだけで、ここに存在しているだけで死にたいんだよ。無がここにあるから。
優しさで許されて「ありのままでいい」とか言われても、全く救われないんだよ。
ありのままでいいと許されても、無は消えない。ここにあり続ける。
誰かに優しくされても、それでもいいとか言われても、全く良くないよ。
だって生きていたいから。
ありのままでいいってこと、発達障害でも、精神障害でもいいっていうことは、それは私に対して「苦しみ続けろ」「死ね」って言っているようなもの。
寛容や許容、許し。私は私を許さなかったのは、私は私に「苦しめ」「死ね」だなんて言えなかったからだ。
生きたいねんで。でも、生きれない仕組みをもって存在して苦しんでいる人がいる。
いかに生きるか。いかに考えるか。いかに理性的に知性的に自分をコントロールして生きていくのか。
誰しもに私を責めることは出来まい。私を許すことも、私を愛することもできまい。
この道にある人は「もうひとりの自分」を再構築するしかない。
それは否定されるべき苦しみの人生を生きる自分を殺してやることだ。苦しむ心を無に還してやることだ。
私は私を殺し続け、消失させた。
これをウォークインとか呼んでもいいし、生まれ変わるとかでもいいのかのしれない。
苦しみを背負って生きている自分を私が肯定出来なかったのは、私が私を愛していたからだ。私にここにいて欲しいと、ここに存在していて欲しいと思っていた愛がここにあったからだ。
私が私の心を殺すのも、私が私の身体を生かすのも、私が私を愛していたからだ。
そのとき、私は誰かを必ず愛してた。
本当に自分のことを愛してたら「障害者でもいい」だなんて思わないよ。
健常者がいいにダントツ決まってるよ。
だから私は私を否定した。健常者がダントツいいに決まってんからだよ!
健常者に「障害があってもいいんだよ」って言われるの、高みの見物者に言われたかないよ。
苦しんだことがないから「そのままでいい」だなんて言えるんだよ。
普通に憧れて、普通でありたくて、普通になろうと自己否定をしまくったら、とりま、限りなく『健常者』に近くなるとき、頑張りましたってギフトが与えられる。
障害を分離させるのに、理性をものすごく使うからギフト化するんだと思う。
私は自分を羨ましいと言われることが大嫌い。私は努力してここまできたつもり。
私は私を許す人間が大嫌い゚(゚`ω´ ゚)゚ピェー
彼くんなんて、
彼くんなんて大嫌い。゚(゚´ω`゚)゚。ピィ-