ツインレイの彼と向き合えないでいる原因『悔しい』という感情

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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彼は私と向き合うことが出来ません。彼のなかでは私が従来に悩み、乗り越えてきた悩みが渦巻いている。

そして、私もまた彼が彼のなかにいる私と向き合うことが出来なければ。もとい、彼が私と向き合えないでいる自分と向き合うことが出来なければ、私も同じように彼に向き合うことができない。

ここには相関性があり、私と彼の関係性に今、着眼している。

私と彼。ここには関係性がある限り、ふたつには同じ現象が生じる。

私——彼に向き合うことを拒絶すること。

彼——私に向き合えないでいる自分に向き合うことを拒絶すること。

今までは、私のなかにいる彼に向きあってきた。だけれど、私のなかにいる彼ではなく、現実にいる彼自身に向き合うターンがきた。

これは私のなかにいる精神的な彼⇒現実に存在している彼というように、精神から現実へと移行しているという感じかな。

彼の方では、現実に存在している自分⇒精神に存在している自分というように、現実から精神へ移行している。

私の方では、今は『現実』を見ているので、お金のことをどうしようかなとか。仕事をするとか。そんな感じになっていて、人生には切手は切ることも出来ない『お金』というものに着眼点を当てているけれど、同時に、現実に存在している彼にも向き合わされていく。

同時に、私のなかにある感情と、彼のなかにある感情のシンクロニティーにも気づいていく。

結局、私が現実に向き合うと、彼の精神と私の精神が繋がっていることを明々白々に理解が出来るようになる。このとき「なんとなくそんな気がする」とか「思い込み」とかでもなくて、明確にわかるようになってくる。

それは、私のなかにある現実に存在する彼への拒絶=彼が心の中にいる私を拒絶という明確な視点が得られるからである。

彼は「自分の中にいる私」と向き合えないし、私は「現実に存在する彼」と向き合えない。

これは他者としての私や彼だけれど、でも、精神的には自分のなかにいる誰かを思う自分と向き合えないでいる自分がいるってことだから、つまりは自分と向き合えていませんってところに繋がってくる。

最後は『自分と向き合えていない』ので、その自分がどこにいるのかを探るわけなんですが。

 

で、今回。

私は、現実に存在している彼に向き合おうとすればするほど、腹が痛い。マジで腹が痛いし、彼への拒絶が凄まじい。

これは何かって掘り下げていくと『悔しい』っていう感情なんですよね。

彼とうまくいくように、いっぱい頑張った。でも、うまくいかなかった。悔しい。

自分の想う通りにいかせようとしていたわけでもなくて、彼の思うとおりにさせてあげようとすればするほど、自分が回らなくなっていく。そして、最後に私は破綻してしまったんだけれど、それはやっぱり私自身がうまくいかせたいって思っていたから。

そのとき、やっぱり悔しかった。

この悔しいって気持ちがお腹にずーっとたまっていて。それからも、どうにかうまくやれる方法はないのか、原因はなんなのか、どうするべきなのか——という解決案や代案とか。それこそ、自分の論理的思考を駆使してなんとか、次には失敗しないようにどうするべきなのかの数値を叩き出そうとしていた。

悔しいっていう気持ちがあると、人は次にじゃァどうするのか——を考えると思う。

でも、少しでもひねくれていると、悔しい理由を人に押し付けて、その人の足引っ張りをしようとしたりして、自分の悔しい気持ちに向き合えなかったりする。

私はずっと『悔しい』っていう気持ちがあったから、次こそはうまくいかせるために考え続けてきた。

それは、自分の思い通りにしたいからであって、自分の理想があって、自分の想う世界を作りたいからである。そのために努力をし続けてきた。

なるほどな。私はずっとうまくいかなくて悔しくて、ずっと頑張ってきたんだ。

そして、彼と向き合えないでいる理由も、この『悔しい』という気持ち。

悔しいからこそ、努力をしてきた。だけれど、同時に、この悔しい気持ちからも逃げてきた。

逃げたとき、私は誰かのせいにすることも出来たけれど、でも、それが出来なかった。誰のせいでもなくて自分のせいだって思っていた。だからこそ、悔しい気持ちが自分に向かい、努力をしてきた。

だけれど、悔しい気持ちが分離している事には違いなくて、悔しい気持ちを感じることが出来ていなかった。

悔しい気持ちを感じることが出来ないから、その対象である『彼』と向き合うことができない。

私のなかで彼は、6点のテスト結果みたいなもので、その結果を見たくないと目を逸らしているようなもの。

彼を直視することは、私のなかで6点のテスト結果で惨敗した悔しい気持ちを直視することと同意を意味する。

 

つまり、現実での彼は、私のなかで「6点のテスト結果」である。

6点のテスト結果を、私たちはどのように処理するだろうか。

他の人でテスト結果が良かった人を恨んだり憎んだりして、自分のテスト結果をあげようとするのではなく、人の評価を落とそうとするだろうか。ほら、カンニングしたんだろうとか虚偽をしてみたり。あいつは人間性に問題があるとか問題のすり替えをしたりとかしてさ。

6点のテスト結果を見なかったことにするんだろうか。テスト結果を見ずに破って捨てたりとか。あと「テストなんてどうでもいいことじゃん」とテスト自体にこれは自分の人生においてさして大きな問題ではない——と考えたりもする。

もしくは、6点のテスト結果を一番によく見える場所に張って「次はがんばる」とするんだろうか。

色々な回避の仕方があると思うんだけれど、私はテスト結果を直視することが出来なくて「どうでもいいや」と問題放棄し、回避している状態と、同時に6点のテスト結果を目の前にはり「次はどうするのか」と解決策を練っている状態が両立されていた。

表面に出ている人格は「次」に意識が向かっていたけれど、内面にある人格では「どうでもいい」と放棄されている状態で、私のなかで腹痛を感じ、彼と向き合えないでいる根源となっているものは『彼なんてどうでもいい』とテーマ事態を放棄している人格の方。

私は表と裏が一致していない状態であり、表面的な人格は「彼」で内面的な人格は「私」である。

私はテスト6点だろうがあんまり気にしていない人だった。これぞ、悔しい気持ちから逃避してきた私自身であり、悔しい気持ちをどうにかこうにか建て直すために「どうすればいいのか」を与えられなかった人生でもあった。

どうすればいいのか——を考え始めて、自分の人生がなんとか拓くことができたのも、二十を超えてからで、それまで親に育てられた私は「自分が手に入れた結果」に対して怒られてばかりだった。

だから、その結果との向き合い方を私は知らない。だけれど、彼は知っていた。

次のために努力をし続ければいいということ。

私は彼である。まま、彼なのである。しかし、内面は今だ「私」であり、私は私を開放し、彼になろうとしている。

「悔しい」の感情と向き合う方法は彼が知っている。そして、その解決方法をちゃんと今回の私はマスターした。

彼の人生で得てきたものがあり、私もまた私の人生で得てきたものがある。

それぞれ真逆の人生で、まったく違うものだったと思うけれど、得てきたものをそれぞれシェアしていく。

私は彼だし、彼は私だし。でも、まったく違う人生を送っているけれど『同じ』なのだ。本質的な部分が同じだから、私たちはシンクロをする。

私が悔しいと思い悔しさから目を背けている時、彼は自分のなかにある本心と向き合うことができない。

私が自分のなかにある悔しい気持ちを受け止めている時、彼は自分のなかにある本心と向き合っている。

なにかに向き合えていない部分が、カタチをかえて向き合えていない部分とシンクロしている。

なぜならば、私たちは常に共振しているからである。

サイレントという音のない世界で、私たちは「聞こえない音」で共振している。

その音を外に耳を澄ませてみることよりも、自分のなかで鳴っている聞こえない音に耳を澄ませてみたほうが、状態はよくわかる。

つまり、相手の状態を気にしたり、相手の心理を探ってみたりとか。他者を探るよりも、自分のなかにある共振の部分に触れることが出来れば、相手の状態だって知れるってこと。

いつだって私たちは繋がっているからである。それは彼と私に限った話ではない。

あなたと私もまた共振し、その共振により、つながりが生じている。この共振の振動数がどんなものなのかにより、繋がる人も変わってくる。

その共振の大元になるものが悲しみだったりもするけれど、それはそれで私は人とのつながりの良さを知ることにも繋がっていると思う。

悲しい人を避ける人もいるけれど、私は誰かと関わること、誰かの苦しみや悲しみに触れることは、私自身の苦しみや悲しみに触れることと同じことだと思っている。なぜならば、共振だから。

あなたの揺れが収まるのであれば、私の揺れも収まる。そんな仕組みだと思うから。

 

私の揺れが収まること。それは彼の揺れが収まること。

繋がり方や関わり方は、これからも変化し続けていく。

私たちは成長しているし、日々変化を通過している。

 

彼は私が怒っていると思っていると思う。それは私が「怒られて育ってきた」からである。

彼は怯えていると思う。子供の頃の私は家族に怯えていたから。

家族が怖い。彼も私も、家族が怖い。それは、お互いが怖いという意味でもある。

彼もまた同じように私に対して感じていると思う。そして、それが「私」ではないこともよく知っていると思う。

私たちは、私たちの親の姿を見てしまう。でも、それが私たちではないことに気づいていくことが、親ではないオリジナルの自分になっていく術である。

私たちは未来を視た。その未来を破壊するために、未来の私たちを破壊する必要性がある。

否、それは私たちの過去であり、親のことであり、私たち自身のことではない。

同じことを繰り返さないために、終わらせなければならないものがある。

繰り返されてきた世界線を選ぶのか、新しい世界線を選ぶのか。どちらにするのか——。

私たちは苦しんでいる。何度も繰り返されてきた家系のカルマに苦しんでいる。でも、次の世代にこの苦しみを引き受けさせない為にも、私たちが今苦しむ必要性がある。

自分の子供が苦しむのか、自分が苦しむのどっちがいいのかといえば、自分のほうがまだマシ。

自分のことならば、なんとかすることができるから。人のことは、ホントにどうしようもできないと思っていたから。

でも、今はそうでもない。人のこともなんとかできるようになってきた。

だから、もういいのかな? と思っている。もう、これ以上はいいのかな? と。

でもさ、もう背負っているものがほとんどないのよな。