精神的幸福と現実的幸福の共存がしたい(なとりの幸福論)
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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精神的幸福とは、心が満たされた生活が送れること。
現実的幸福とは、自分の望む生活が送れること。
なのかなと思いました。
しかし、精神的幸福が誰かよりも持っていること、誰かよりも優位であることであるとき、傲慢になる。
そのとき、現実的幸福は誰かが望む人生となっている。
他者による指針により幸福度が左右されているとき、私たちは幸福とは言えない。
他者から羨ましがられる生活をしている自負があるとき、私たちは慢心で満たされたことを「幸福」と捉えている人もいる。
私たちが精神的幸福を得るためには、自分の存在を認めることにより生まれ、現実的幸福を得るためには、自分の選択による自由を手に入れる必要性がある。
もし、自分軸について問いたいのであれば、自分の存在を認めることは「自分とはこのような存在であり、その存在は他者との共存が出来ている」ことを意味し、自分軸の土台となる。
まずは精神的な土台が存在し、そのうえに現実的な道が存在している。
現実的幸福とは「何かを持っていること」として考え、他者との比較があるとき、精神的幸福が満たされていないと考える。
それから、現実的幸福とは他者から与えられたものでは無く、自らが望むことにより生まれる。
つまり「自分がやりたいことをやる」のだが、自分が何をやりたいのかがわからないと、自分がやりたいことを他者に望まれたものなどに変換されてしまう。
精神的幸福と現実的幸福には相関性が存在し、どちらかのみしか考えられない時、もう一方を排除してしまう傾向もある。
精神的幸福を重要視するあまりに自分の人生を送ることができない。現実的幸福を重要視するあまりに自分の存在を捨てるきらいがある。
いわば、精神的幸福が自分の存在ならば、現実的幸福は自分の人生にある。
精神的幸福は無限にあり続けるが、現実的幸福は有限にある。つまり幸福感は常にそこにあり続けるが、人生とは限られた一生を意味する。
このとき、何かを犠牲にし幸福を手にするときがある。
精神的幸福では他者の存在を犠牲にし、現実的幸福では他者の人生を犠牲にすることがある。これは真実なる幸福ではなく、支配による恩恵でしかない。幸福とは創造的であり、支配的なものではない。
真実なる幸福とは絶対性が存在し、誰かを不幸にするものでもなければ、誰かを陥れることでもなく、誰かとの比較により生じるものではない。
ゆえに精神的幸福と現実的幸福を得るために、私たちは私たちの中に存在している自己をいかに自己統合させておくかが肝になる。
統合者とは、他者の望みと自分の望みが一致し、ワンネス者とは社会の望みと自分の望みが一致する。
他者との関係性が適切な距離により保たれ、他者に巻き込まれることの無い自分を構築するが、それは拒絶ではなく共感である必要性がある。
もし、他者との共感を失っているのであれば傲慢となり、他者との一体化が起きているのであれば依存となる。
共感を失っている部分に共感を呼び戻し、一体化している部分に分離をもたらす時、私たちは関係性を適切に保つことができる。
ツインレイでいえば、一方が共感の欠落があり、一方が共依存的傾向があるとき、共依存と回避依存の関係性が成立する。
回避依存者(または部分)は共感を取り戻すことが自己統合となり、共依存(または部分)は分離を取り戻すことが投影を終えることに繋がっている。
『幸福』とは、存在にも人生にも及ぼされるべきものであり、そのとき他者が介入する限りは幸福を得ることは無い。
しかし、この世とは他者とのかかわり合いを避けて通ることはできない。からこそ、幸福が衝突しない幸福の共存が必要である。
あなたが幸福なとき、私は不幸です。という場合、これは関係性が破綻している。
また、自分の幸福が誰かに脅かされるとき、それもまた真実の幸福とは言えない。幸福とは他者により左右されるものではないためである。また、環境に左右されるものでもない。
私たちは精神的に幸福が満たされている時、いかなる状況においても幸福をかくことはないだろう。現実がもし自分の思い通りにいくことがなくとも、私たちは不幸というわけではないことを知っている。
もしサイレント期間がなにかの不幸に襲われてしまうのであれば、それは本当の幸福ではなかったということだ。
幸福とは、自分の存在であり、自分の人生である。
このとき、他者の存在により不幸になることもなければ、他者の人生により不幸になることもない。
他者の存在によりのみ幸福になることもなければ、他者の人生によりのみ幸福になることでもない。
これはどれだけ立派な人と結婚し、どれだけお金持ちの人と結婚したとしても、それが幸福だとは言えないということである。
自らの幸福とは他者の存在に依存せず樹立している必要性がある為だ。
しかし、他者の存在や他者の人生とは、自分の幸福を拡大させるため、私たちはまずは拡大させるべく自分自身の幸福を見つけ出す必要性がある。
つまり、ツインレイの再会を果たしても私たちはまるで幸福では無いのである。
私たち自身が自分の幸福をみつけ、受け入れ、幸福そのものになるがゆえに幸福がツインレイによち拡大するためである。
ゆえに私たちはサイレント期間で、自らの幸福のみを問い、拡大するべく幸福を見つけ出す必要性がある。
精神的幸福による幸福の拡大は、結婚により拡大され、存在の幸福が子に継承される。
現実的幸福による幸福の拡大は、共感により喜びの共有をすることにより拡大される。
私たちは先ずは自分を、幸福な存在、幸福な人生へと向かわせる必要性があり、その先に『あなた』が存在している。そのときの私たちは結婚したいと思うことだろう。
幸福の拡大を予感するからである。※ この人とならば、相手も自分も幸せになれると思うからって意味。
これが私の幸福論かな( ˇωˇ )