さびしさを紛らわすための依存的な結婚ではなく、楽しい結婚を。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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今まで、さびしいから誰かと繋がろうとしていたし、さびしいから誰かと関わろうともしていたし、さびしいから結婚をしようとも思っていた。

結婚って、さびしいからするものではないんだと思う。でも、ずっと孤独だったからこそ、結婚はさびしさを払拭することができる永遠の約束のように感じられていた。

結婚は、自分の欲望を満たすためにするものではないし、さびしい感情を満たすためにするものでもない。

大事なのは、そこから「楽しい」「繁栄」が生まれることを結婚と呼ぶのだと思う。

私のなかにある「さびしい」っていう感情が、さびしい人を呼び寄せていたような気がするし、さびしい人の傍にいることは、やっぱりさびしいことなのだと思う。

さびしい人とは、精神的に共感性がないこと。そして、現実的にいっしょにいる時間がないこと。

どちらも『共にある』ことが出来ない人といっしょにいることは、さびしいことなのだと思う。

だからこそ、精神的な共感性を持つこと。そして、いっしょにいる時間を持つこと。そして、その時間を『楽しい』と思える自分がここにいること。

 

依存的な関係性は、さびしさをより倍増させる。

でも、自立した際の関係性は、さびしさよりも楽しさのほうが大きくなるんだと思う。

なぜ寂しいのか。それは自立しきれていない自分がいるからなんだと思う。それは何からなのかはわからないんだけれど、そのさびしさを紛らわすために、私たちは依存と言う時間の潰し方をしている。

それが、人によりけり。色々違うんだけれど、それがゲームだとか。それがテレビだとか。それがSNSとか。お酒とかもそうだし、それが恋愛なのか、悪口なのか。結局、依存とは、時間の潰し方が根源にあるさびしいに目を向けないようにしながら生きているための手段になってしまっている。

私たちがもし「なにかをやめられない」のであれば、それは「さびしい」ことなのだと思う。

私が書くことがやめられなかったのも、さびしくてたまらないのだ。(今はそうでもないから、書こうとしなければ書けないのだけれど、なるべく、デスクに座るようにしている)

そのさびしさが依存に変換されると、私たちは、より一層大きい『さびしい』を体感することになる。

 

人はさびしい生き物だし、孤独な存在だし、でも、その孤独を受け入れて生きていくことが、もし自立と言うのであれば。

その自立は、私たちを依存から解き放ち、楽しい関係性、楽しい在り方、楽しい私生活がやってくるものかな? と思った。

つまり、依存はさびしいさから生まれるもので、時間の使い方がよりさびしくなるもので、どこかで、自分自身を、また大事な人を寂しくさせるものだと思う。

この依存を断ち切るためには、さびしさと向き合わねばならない。

そして、精神的に自立する為にもさびしさと向き合わねばならない。

 

ただ、私は『書くこと』『思考すること』に没頭したが、これは健全である。依存とは、あなたを孤独へと向かわせるものである。

私は、ブログを書き続けて、別に孤独になったわけじゃない。逆に人とのつながりが増えた。これは、私が『健全』だからである。

もし、このブログがすべて悪口を書き続けてきたならば、それは人とのつながりが生まれなかったと思う。だから、悪口のブログは依存症なんだと思う。それは孤独だから書くことに依存しているんだろうなと思う。

それでも『依存』と『健全』だろうが、書くことをし続けることには違いなし。根底には感情がある。私が書くエネルギーの源は、それはさびしいという感情。

でも、正直、それだけではなかったのも確かである。

私は書くことが楽しいし、好きなのだ。私は書き続けていきたいし、私は論じ続けたい。私はやりたいからやっている。それもまた、私がひとつの『さびしい』を『楽しい』へと切り替えることが出来たものなのかな? と思っている。

ツインレイと出会い、私はさびしいをたくさん生み出した。

だけれど、そのさびしさをすべて書くという創造を通して、私は「楽しい」に切り替え続けてきたのだと思う。

 

私はさびしさをすべて書き並べると同時に、楽しさを感じていた。私は書くことに『苦しみ』はあんまり感じていない。ただ、思考とキーパンチャーが追い付いていかないことにはモヤモヤしたけれど。

私は悲しみや寂しさをカタチにして、そのカタチにする過程が楽しくて、最後に残るものはハッピーエンド。

たぶん、愛していた。あなたの孤独も。

だから、今度はさびしさで繋がって出会う結婚ではなくて、もちろん、これは回避したけれど。

今度は、楽しさで繋がって出会う結婚がしたいな。

私の『楽しい』に呼応した人と結婚したい。

 

私が嬉しい時、あなたも嬉しい。

私が楽しい時、あなたも楽しい。