ツインレイが新しい世界へ移行するときの課題について(日月神示から)
日月神示(碧玉)の岩戸閉めから――。
ナギナミの岩戸閉めは、異性性の分離により、異性から与えられているものに気づけないし、相手の気持ちがわからないのが夫婦となっている。
⇒異性性を目覚めさせることで、優劣思想ではなく異性を理解出来るようになる。
天照の岩戸閉めは、投影世界、比較の世界となった。誰かよりも優れていたい気持ちが投影世界を生み出す。
⇒他人は他人、自分は自分と明確に分離させ、自分に集中する必要性がある。他人は自分に関係がないのだ――という視点。
素戔嗚の岩戸閉めは、ルールや法律に縛られる善悪思想の世界となった。善行も、自己都合により悪と解釈されることがある。
⇒良心による行動を起こすことで、法律やルールを超えていく。罪とは本当に罪なのか。
神武天皇の岩戸閉めは、選民意識の世界観。人が神を語ることで自分は選ばれた存在であると思い込むこと。
⇒無価値である自分を受け入れることで人が人としての人生を生きること。
仏魔による岩戸閉めは、知恵と知識の違いかなと思っている。※まだ明瞭化されていないが仏教と神道の違いである。
知識は学んだことで、知恵とは学んだことを身につけられたもの。仏魔とは、知識のひけらかしや身についていない、経験性がないものを『教える』ようになったこと。
⇒本来は神道であり、教えるのではなく、知恵の提供であり、知恵は神へとなる為の道であった。そこには経験性と知恵がある。
つまり新しい世界とは、
- 夫婦円満、どちらも自分がするべきことをしているし、異性を理解し合えている。
- 自分だけに集中している自分軸。
- 法律やルールを良心により超える。
- 人は人である。
- 知恵の継承がある。
ということなのかなと思っている。このとき、ハイヤーセルフ(霊)が受肉しているよってことだとも思う。
準備が整った人から心の洗濯をしていくし、心が洗濯されないとハイヤーセルフが受肉出来ないよって感じ。(あたいは洗濯屋さん( ˇωˇ ))
古い世界観から新しい世界観への切り替えがツインレイというナギナミの世界観が始まりとして切り替わっていくのかなと思った。
ツインレイっていうのは『全く合わない人』ってこと。合わないから課題が生じる。
問題が炙り出しになって、内容を克服出来るかどうか――が、全く合わないからこそ出来るようになる。共通点ZEROってことだな。
で、ツインレイは、この五つの世界観を克服していかないといけない。
- 自分の中に異性への理解がない
- 理解は出来ないが異性を丸ごと愛せたか?
- 愛せない場合、アウト。
- 集中された自分軸がない
- 自分に集中し続けられたのか?
- 他人の集中を邪魔したら、アウト。
- 積みへの理解がない
- 良心ある(悪意ない)判断をしたのか?
- 少しでも悪意がある場合、アウト。
- 神である意識がある
- 神である自分を捨てられるのか?
- 自分は神である、傲慢でアウト。
- 知識はあるが知恵は無い
- 知恵の提供はあるのか?
- 中身がない場合、アウト。
これを全体的に、ツインレイの出会いから別れまでの間にやれているかどうか――である。
つまり人間の知性側で理解が出来ているのか。
アウトの場合、クラヤミのやりたい放題の世界になる。「やりたい放題」やってるのを見ることになる。
ツインレイたちはどう感じている? 同じようにやりたい放題やっちゃう??
サイレント中はアップデート期間である。ツインレイの期間で既にテスト終わってる。
終わった時に、それなりに『合格』のサインは貰ってると思うよ。あたいは夢見で合格サイン貰ってた。
そこからサイレントになる。
アップデート後は、
- 夫婦円満、どちらも自分がするべきことをしているし、異性を理解し合えている。
- 自分だけに集中している自分軸。
- 法律やルールを良心により超える。
- 人は人である。
- 知恵の継承がある。
こうなっている。
つまり、サイレント後期では、異性性性を理解しているし、他人を気にせず自分に集中しているし、吹っかけられた罪の釈明が終わり良心であることが証明され、神ではなく人である自分を生き、知恵の継承が出来ているのか――がチェックされている。
チェックされているかっていうか、私たちの中で正解はもう分かっているので、自分で自分をチェックしているに過ぎない。
出来ていないってときも無意識さんが「できてない」って判断する。
こんな感じかな。
課題がちゃんと出来ていれば、新しい世界に行くし、出来てなければ自ら望んで古い世界へ行く。
古い世界へ行くことが失敗だったと新しい世界に進む人たちは思うんだけれど、古い世界へ進む人たちもまた「自分は正解だ」って思ってる。
だって傲慢だから(´・ε・`)
でも、見る人が見ると「心の洗濯、終わってないじゃん」って感じるんだ。
まだ審判が終わっていない人達もいるし、古い世界観に残って行く人たちも、新しい世界観に進む人たちも、どっちも幸せだと思う。
古い世界観に残る人たちは、そこが適切で、そこにいることを望んだのであって、実際、望み通りの人生になるし。また、新しい世界観へ進む人たちも同じなのね。
だから、どっちが正解って訳でもない。自分がどっちを正解にするのか? っていう自己判断による結果でしかないんだ。
どっちも正解なんだよ。だから、どっちに行ってもいい。ただ、なとちゃは新しい方が肌に合うからそっちに行くね(´・ε・`)ってだけ。
だから古い世界観に残ることが正解な人たちを非難するつもりはないのだよ( ˇωˇ )
自分が『正しい』と思う道に進んだらいい。それは自己判断の連続のなかで道が生まれている。
あと、クラヤミの世界の人たちと、最低でも五人は出会って関わっているわけなんだが、ほぼ全員が私のコピーになってる。
結局、クラヤミなんだと思う。
異性が分からない、理解できないクラヤミから生まれた妄想と勘違い。
自分が分からない、理解できないからクラヤミから生まれた自分では無い自分を他人と比較する。
何が悪かわからない、良心への理解ができないクラヤミ。
神が何かわからないクラヤミ。
知恵と知識の違いがわからないクラヤミ。
つまりさ「見えていない」んだよね。何が見えていないのかはそれぞれ違うんだけれど、本来は見えていたものがあるんだよね。
自分のなかに多くの闇があって、その闇がみえさせていないわけ。でさ、クラヤミから抜けていく人って「みえている」んだよね。
だから見えている人のコピーをするんだと思う。
コピーしても、結局、コピーはコピーだから、クラヤミの世界で、新しい世界の人のコピーでしかないんだと思う。
知恵は継承された時点で知識になる。知識を自らの知恵に出来るかどうかは、また別の話。
だから、クラヤミの世界ってコピーなんだと思う。
つまりは自分がない。それが自分だと思ってて、自分がない人だよねって指摘されると逆上しちゃう。(あたいは喜び、なんもないってサイコー)
でも人って、本質的に無だよね。なんもない。そんな自分を受け入れられていないから、結局、クラヤミなんだと思う。
無のクラヤミを受け入れて人は光になる。
光ってコピーじゃないんだよ。
コピーじゃないオリジナルになって、ようやく光。
岩戸開けをするってことは、岩戸閉めをするってことなんだよ。
こちらが新しい世界に岩戸開けするとき、古い世界には岩戸閉めをする。バイバイってする。
開けるってことは閉めるってこと。
彼くんは岩戸開けの向こうの世界で一緒にいる人だと思う。彼くんは岩戸開けをして私は岩戸閉めをした。
そんな感じ。開けると閉める。両方必要で、私のなかでは先に閉めて、次に開けた。
彼は先に開けて、次に閉めた。
最初に開けて閉めるときは一緒にいるからすれ違う。サイレントで一緒にいないのは、お互い開けたし閉めたから。
次に開けて閉めれば、同じフィールドにいるはず( ˇωˇ )机上の理論上では。