第二チャクラを整えるとどのようなことになるのか。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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第二チャクラのテーマ的なものを私が理解しているものである。
- 第二チャクラ
- テーマ:精神的自立
- 精神・・・嬉しい・楽しい・幸せ、感情一般
- 現実・・・嬉しい現実、楽しい現実、幸せな現実
- 繋がり・・・感情的関係により生み出される関係性(母親)
まず、精神的な自立を第二チャクラが担っている。この第二チャクラが持つ精神的な自立とは『女性からの自立』である。
つまり母や姉という女性への依存を意味している。また、この部分に依存されることも、精神的自立を妨げる理由となる。
自ら誰かへ介入し、誰かの自立を妨げることも出来るし、誰かから介入され、自立を妨げられているケースもある。
自立を妨げられている側は「感情一般を感じられない」という状態になっている。嬉しいこと、楽しいこと、幸せなこと。それらを実感することができない。
また、自立を妨げている側は「感情がフルスロットル」になる。嫉妬深くなったり、人を否定したりなどが多くなる。ゆえに、喜びに関する感情一般を受け取ることができない。
このコードが立ち切れるとき、私たちのなかに存在している『依存される』『依存する』というテーマが終了する。
依存する人は依存されるし、依存される人は依存する人ということ——。
この依存が自立へと向かうとき、私たちは誰かから無条件に愛されることを終えている。自らが自らを無条件に愛することが出来るようになっており、誰かを必要とせずとも、自分を愛する状態へとなっている。
依存する人は、愛されたいと思っているし、依存される人は、愛したいと思っている。この構造が『共依存』とも言え、愛し合っているとも言えるが、この依存的な関係性には『自分ではなくても構わない』ということ。
母とは、私たちが誰であろうが愛してくれるだろう。
あなたが誰だろうが、母の腹を通過した私たちは無条件に母に愛されている。これが『無条件の愛』である。
もし、これが社会的なテーマに揉まれたのであれば、あなたが国家をまとめ上げるような総理大臣であろうが、ホームレスになろうが、なんなら、あなたが誰かを殺人し、社会から敬遠されるほどの大罪人になったとしても、あなたは『無条件の愛』に愛されているということ。
つまり、あなたがいかなる存在であろうが、愛されている。このテーマが第二チャクラに眠っている。
私たちは、この愛を受け取り損ねている時、第二チャクラが『依存』を呼び起こす。
あなたの愛を奪い、あなたの愛へ入り込み、個人の愛を破綻させるのである。私たちの依存とは、本来、幼少期に終えているものだが、幼少期に残している「無条件に愛されるときに、条件を付けて愛されなかった経験」が第二チャクラを傷つける。これが『依存』である。
依存とは、相手へ感情的に怒ったり、自分の問題を相手に押し付けたりなど『感情的』に行われるヒステリーとしても現れることになるが、時に、怒りを奪われ、依存されることを拒絶することさえも出来ない状態にも依存され体質へと変貌する。
現代人の多くが、この『依存するのか』『依存されるのか』という争いのなかにいる。そうやって、自立を妨げているのである。
依存するときの私たちは、愛されたいと思いながらも、自分の思い通りにならない現実に怒りを覚え、ヒステリーを起こして他者を動かして支配する。
依存されるときの私たちは、愛したいと思い、自分の思い通りにならない現実を受け入れては支配を受け入れている。
しかし、第二チャクラのテーマは「めっちゃハッピーな現実」にある。自分の思い通りになる現実を自ら生み出し、それを受け取っていくスタンス。
私たちが自分の思い通りにならない現実とは在りえない世界観にある。そこに怒りもなければヒステリーもない。
第二チャクラは、ここにある現実はすべて『自分の思い通りのものでいいんだよ』って教えてくれている。
第二チャクラの状態は『怒りで現実を支配しようとするのか』を開きすぎと捉え、『怒ることすら放棄し、支配されることを受け入れるのか』を閉じていると捉える。
しかし、第二チャクラが整っている状態とは、現実はすべて自分を喜ばせる世界であっていい——という感覚である。というか、それが『普通』なのである。
思い通りにならないのが現実ではない。思い通りになっているのが普通であり、精神的自立を果たしている人たちは『思い通りになっている現実を受け取っている』のである。
でも、怒りを手放そうが、支配を拒絶しようが、なぜか『思い通りのハッピー』にならない。その理由は、そもそも、自分が何が嬉しくて、何が楽しくて、何が喜びなのかがわかっていないからである。
私たちのポジティブなハッピーな感情がいつ発生するのかを知らない。私たちは、その感情を依存により奪われているのである。
ここでいう依存とは何か。
それは、自分の喜びはあなたの喜び。あなたの喜びは私の喜びという『共感』にある。
残念ながら、あなたの喜びは私の喜びではないし、私の喜びはあなたの喜びではない。同じように、あなたの怒りは私の怒りではないし、私の怒りはあなたの怒りではないんだが、第二チャクラがコードで繋がれている時、あなたの怒りを私のことのように感じ、私の喜びをあなたの喜びように感じられるだろう。
単純に、私が好きなたらこパスタも、あなたがたらこアレルギーなら好きだなんて思えないわけである。ましてやたらこパスタが皿のうえに乗せられてもうれしいだなんて感情は湧き上がってこない。
当たり前である。
しかし、第二チャクラが俄然、自立を果たしていない時、たらこパスタにアレルギーを起こそうが、食べなきゃいけない。なんなら、喜びながら食べなきゃいけない。
これを『地獄』と呼ぶ。
あなたの味覚と私の味覚は違う。その違いを理解しているかどうか——である。
この依存が分離できていないとき、たいていが母子における分離が済まされていないわけである。それは、母が子に自分の味覚を押し付けているか。または子が母に味覚を押し付けてくるなとブチギレてヒステリーになるのか。この違いが開きすぎなのか、閉じているのかの違いである。
第一チャクラとは「イヤイヤ期(第一反抗期)」にあり、第三チャクラとは「思春期(第二反抗期)」とする。
このとき、第一チャクラを基盤に第二チャクラは『育てるとき』である。同じように、第四チャクラとは第三チャクラを基盤に育てるときである。
第一チャクラとは反抗期により『他者と自分の分別』をつけるが、この分別が成立することで「あなたと私の味覚は別のもの」を理解し、あなたの好きと私の好きは違うものと解釈する。
しかし、イヤイヤ期を受け入れてもらえずに、イヤイヤしているのに強制的に支配された子供たちは、第二チャクラにおける『他者の好きと自分の好き』の分別をつけることができない。
開きすぎの人たちは、親が嫌いなものを好きとして捉えて育つことで『開きすぎ』なのである。反抗期のまま——ということ。そして、開いているということは、一応は動いているから、社会的な活動もできるために結婚したりなども出来るが、反抗期のままであるがゆえに天邪鬼な人たちも多いと言える。
本来の第二チャクラは、自分が好きなこと、自分が嬉しいこと、自分が楽しいこと。自分が欲しいものなど『自分』を主体として生み出す欲求や感情を感じ取ることが出来るようになっている場所である。
それは『自分』が明確にわかっているからこその欲求であり、感情である。しかし、明確にわかっていなければならないのは『自分と他人の分別』である。それを破壊するのが『依存』である。
たとえば、母子間で起こりえるのが『母の感情は娘の感情』というカタチになりやすく、これが第二チャクラが閉じている。これが母が娘に依存している状態である。
『母の感情と娘の感情は真逆』というカタチになるとき、これが第二チャクラが開き過ぎている。これが娘が母に依存している状態である。
何かに反発するとき、私たちは『反発する主体的な存在』を認識するから反発する。つまり、アンチはテーゼがなければ成立し無いって話に繋がっている。そこに定義が無ければ、定義と真逆の意見を持つことができない。これを定義への依存とする。これが『開き過ぎている』とされているチャクラである。
誰かが存在しなければ自分が存在することができないとき、私たちはチャクラが動きがおかしくなっていると言える。
母が好きなものは私が嫌いなもの。開きすぎの状態。依存している。
母が好きなものが私の好きなもの。閉じすぎの状態。依存されている。
ここにはどちらも『母』という主体性が存在している。
第二チャクラには、母子関係が密接に存在しているのだが、姉妹関係なども第二チャクラに関わっている。
傾向として、自分の好きなものを否定されると悲しい気持ちになる——なども、依存がある。
つまりは『主観で許されている領域にある自由』を受け取れているのかどうか。それが『第二チャクラのテーマ』である。
そこにある依存とは、あなたの主観が、本当にあなたの主観なのかどうか——である。
あなたが好きなものは誰かが好きだと言うから好きなのか。
あなたが嬉しいことは誰かが嬉しいなのか。
あなたの喜びはあなただけのものなのか。
あなたが好きになった人は『本当に』あなたの好みの人なのか。
もしかしたら、母親の好みの人と結婚した人なのであれば、母子に依存が存在しているし、母親の好みとは真逆の人と結婚したのであれば、母子に依存が存在しているのである。
第二チャクラが解放されることで私たちは『個人の主観の自由』を得ることができる。
そのときの私たちは、好きなものを食べて嬉しい気持ちになって、好きな人たちといっしょに過ごして楽しい気分になっている。
そして、いつか、自分の好みの人と出会い、その人と結ばれては生涯を共にする——という大事な基盤を『五感で知っておく』必要性がある。その五感を互いに知り合うことが『相手を知ること』に繋がっていく。
第二チャクラに重要なのは、自分の主観を知り、自分の喜びを感じることである。
あなたが「誰なのか」の個人的なアイデンティティは、この第二チャクラに秘められている。
そして、自分が誰なのかを知れるのは、自分しかいない。また、その自分自身を奪われているのが『依存』なのである。