覚醒の結果とは——未来の希望と安心のために(方向転換の記録として)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ここ最近、私自身が向き合っていたのは『私のこと』ではなく、『他人のこと』でした。

私は自分を信じるのではなく、ずっと他人を信じてきました。代わりに代償として、私の人生が危ぶまれていきますが、それはそれで覚悟のうえで『誰かを信じる』ということを続けてきました。

結果、私は誰かを信じることは私自身を信じることという感覚を覚えていました。

誰かを信じるとき、必ずリスクが生じる。そのリスクを背負うことができる自分となれることは、私にとって大きな成長でもありました。

すべてにおいてが自己責任でした。

ですが、今、私自身が向き合っているのは『私が信じた結果、悪い方向性へ進む人たち』です。

私が信じてきたものはなんだったんだろうと思いました。私が信じれば信じるほど、人がよろしくない方向性へ向かっている感覚をも覚えるようになりました。

鏡の世界です。

私と一緒にいることで悪い方向性へ進むのであれば、私がいっしょにいることはありませんし、出来ません。

理由は、相手も私にとっても良い結果にはならないためです。私が身を守るとき、相手のことも守っています。同じことです。これが自他同一化による視点ではないかと思います。

これは、私自身が「人を信じる」ことをし続けた結果、人を守ることを優先し続けた結果、まわりまわって『相手を守ることは自分を守ること』が同一的に感じられるまでにいたっただけなのかもしれません。

私は自分の身を捨てていたわけではないのだと、実感的に感じることができるようになりました。

私は、人のために生きることは自分のために生きることなのだと思っていました。それが机上の空論であれども、私はそれを信じ、その道にありました。

最終的に、それが自分のなかで体感できるようになったということです。私は間違っていなかったんだなと思います。

今まで私は、人を信じていたのもあって人を否定することもありませんでした。今は否定することもあります。

その否定は、彼らが『自分だと思っている自分』に対し、私は否定しているように思います。幻想を否定しています。

本当の自分というものから逃げ出し、自分だと思い込んでいる自分となることで、人は擬態をするのだと思います。

 

人の中には『本来の自分』と『嘘の自分』が存在しているのだなと思いました。

本来の自分は眠ったままなのだな、と。

嘘の自分とは親に教えられた自分、親そのもの、自分の記憶により形成された世界。そんな自分と他人を形成し、また、その世界そのものを私は『幻想』として捉えています。

そして、その幻想を見続けているのが、眠っている本来の自分なのだと思います。

私は、眠っている人たちをみていました。今も眠っているのだと思います。その幻想のなかで『自分の記憶を生きている』状態です。

だけど、自分の記憶と戦い、現実を直視することをし続けている人たちは目覚めるのだと思います。

現実を直視するとは、自分が抱えている傷を感じることです。自分がどれだけトラウマを背負い、傷つき続けてきたのかの現実を直視することで、私たちは幻想から少しずつ抜け出していくことになります。

私たちは、ただ『記憶の中にいたのだ』と実感し、ようやく、目を醒ますことが出来ます。

そのためには、今起こり得ている現実そのものをしっかりと感じ、人のせいにすることなく、自分の傷は自分で背負う覚悟をしていくことなのだと思います。

傷ついているのは自分です。そして、出会う人たちも皆、同じ場所に傷がある。その同じ傷をなめ合い続づけ、記憶をいっしょに共有し続けているのが幻想の世界の特徴性ではないかと思いました。

 

私は、まだ自分が明確に『目を醒ました』と言葉にすることは出来ません。

まだ、これからも自分自身が目を閉ざしている部分があるかもしれないから、その部分を少しずつ明るみさせ、自分にとっての事実を探していく必要性があるのだと思います。

目を醒ますとは『今までの出来事について、すべてにおいて許すことができる』というような感覚です。これはただたんに表面的に許すのではなく、すべてを理解するがゆえに許さざるを得ないとも言えます。

目を閉ざし、固く殻にこもり、私たちはずっと幻想の中にいる理由を、私たち自身が自分のなかに答えを見つけることが出来ます。

今までの嫌な出来事も、すべてにおいて『幻想であり、その事実を直視することが出来なかった』という原因を知る機会に恵まれます。

しかし、私はそれを人に説明し、また解説することもできるかもしれませんが、人が『理解する』ことと『腑に落とす』は別問題でもあります。

理解することは出来るかもしれません。しかし、魂の覚醒状態により、腑に落とすことができるかどうかは別問題です。体験が出来ているのかどうかにより意味が違います。

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私が、この覚醒と言う問題についてを二極化世界による『目覚める世界』と『眠り続けている世界』も関係しているのではないか——と考えておりました。まさにそのまま、覚醒とは『目覚めること』です。

この目覚めるとは『自分が教え込まれた記憶の中を生きる』のではなく『自分がみたい世界をみる』方向性へ進んでいくことなのだと思います。

人は『覚醒している部分』と『未覚醒している部分』の二種類があります。そして、すべての覚醒へ進むために、私たちは『自分の記憶』に立ち向かわなければならないのです。

その記憶そのものが『相手に対しての主観』へと導かれ、私たちは、本当に私たちだったのか? と考えてみると、案外、私たちではなく、記憶の中のだれかを体現しているに過ぎないことも大いにあるのです。

私たちは、随分と長く『私たち』ではなかったように思います。

ですが、私たちではない私を『自分』だと思い込み、苦しみ続けているのが私の世代のように思います。

 

どのような方向性へ進むのか。私にはまだわかりません。
この現状そのものに対して、私自身も少々困惑をしております。

自分の知覚が随分と切り替わり、いつかは誰かを信じることにより、自分を信じてもらえる循環を持っていましたが、それさえも終わりのようです。

私は私を信じることになりました。それだけの自分になることが出来ました。

今の私のなかに『他者』がいないように感じられます。だから私は他者を信じるのではなく、自分を信じたうえで人を信じることが出来ます。

今『自分だけ』ともなれたような気がします。自他分離の感覚です。

 

私は今まで不安と恐怖と戦ってきました。不安と恐怖がある方向性へは進まないように気を付けました。自分の人生を破壊しない為です。

今は、安心と希望のある方向性へ歩いていきたいと思っています。

この期間、私はゆるやかに方向性を変えていたのだと思います。

不安を安心へ。恐怖を希望へ。今までは他人のそれらを請け負い、切り替えてきました。

今度は、人に安心と希望を与えるのではなく、自分に安心と希望を与えたいと思います。

今まで、私は人の不安と恐怖を、安心と希望へ切り替えることを行ってきたように思います。それは私生活のなかで、私自身がそのすべてを背負うことにより終わらせていくことが出来ました。

精神を病むとは、不安と恐怖、罪悪感による自己破壊です。私が背負うべく家系の因縁は全部終わったかな? と思います。

私自身のライトワーカーはお終いです。

私の主軸となるお役目は『トランスミューター』というお役目だったのだと思います。

これからはソウルワーカーへと切り替えていこうと思っています。私が私の人生の為にです。

 

まだまだ自分のなかでまとまらないものがあります。

自分がなんか妙に精神的に強いなとは思います。不安により構成されている未来を放棄して、ニートになっているとか。

本来ならば、不安に駆られてニートはやらないよな、と思います。

だけど、私は『欲しい未来を構築しようとしていた』んだと思います。そのために、自分の中にある不安と恐怖を克服したかったんだなと思います。

次は『安心のために』『希望のために』を選び、そして『幸福感』を受け取っていこうと思っています。

 

覚醒とは、不安と恐怖と向き合い、終わらせていくこと。自分の記憶と向き合うことなのでしょうな。

私は私になれたみたいです。