夢見|自由
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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久しぶりに彼の夢を見た。
でも、別に、これは「彼のこと」ってわけじゃない。
彼が介護職に就きたいと言って、介護職に就いた夢。
「好きなことを仕事にしていいんだよ」と私は言っていた。
私の姉は高校の時点で介護系に進み、手に職を得た。早くに自立したかったようだ。
夢が醒めて、これは彼のことではなく、姉のことだと思った。
そして、私のなかにある『選択の自由』のこと。
彼は、仕事を自分で選んで決めたのだなと思いました。やりたいことをやっている。
私は、自分で仕事を選ぶことが出来なかった。
向き不向きでもなく、やりたいことをやってよかったのに。
彼と私の分岐点で、私は自由になれなくてホントにやりたいことが出来なかったんだなと思った。
姉はやりたくないけど自立のための道に進んだんだなと思いました。
だから私はずっとここでくすぶっていたんだなと思った。
やりたくないことをやって大人になっていく人もいれば、やりたいことはやりたくない子供のままの私もいた。
どっちが大人で、どっちが子供なのかはわからないけど、やりたくないことを仕事にして辛い思いをすることが出来ない私は、私の心を私が裏切れなかった。
諦めることが出来なかったのだ。
選択の自由と、やりたいことがやりたい自分の気持ち。
一番は、やりたいことを選ぶことができる自由があればいい。
でも、それが家庭環境とか。親との関係性から出来ないこともある。
それがどんなものだったとしても、私は「やりたくないことはやりたくなかった」のだと思う。
生きるは、血の味がする。
生きるために、やりたいことをあきらめる人もいる。
生きるために、自由を捨てる人もいる。
生きるために何かを捨てることも出来るけれど、これもひとつの選択なんだと思う。
姉は、生きるために自分のやりたいことをやらなかった人なんだなと思った。そして、やりたいわけでもない仕事について自由を得た。
私は、生きるために自分のやりたくないことはやれなくて。頑固にもやれなくて、私は自由を得ることが出来なかった。
私は自分の気持ちを大事にして生きてきた。
代わりに苦しかった。自分のやりたいこととか。自分の好きなこととか。そういうものが出来ない苦しみがつき纏う人生だった。
私は苦しみ抜いた。何かが手に入らない苦しみを私は苦しみ抜いた。それは諦めなかったからだ。
何が手に入らなかったのか。
自分のやりたいことをやる自由である。渇望したのは彼の姿。
やりたくないことを選んで自由になった大人もいるけれど、私は、自分のやりたいことを選んで自由になりたい。
やりたくないことが自分を自由にするのではなく、やりたいことが私を自由にしてくれる。
彼は、こんな世界で生きていたんだなと思いました。
彼はやりたいことをやって自由にしていた。
私は? うーん。別の意味で心が自由だった。
彼は行動の自由とか、選択の自由とか現実的な側面に自由があったけれど、
私は精神の自由とか、想像の自由とか。視えない側面に自由があった。
好きなことを考え、好きな思想を練り、好きなように哲学をしてきた。
好きなように描き、好きなように書き続けてきた。
私は、芸術のほうでとてつもない自由な人だった。
今でもきっとゾウはピンクに塗られ、スズメもまた水色に塗られ、空に解けている。
心だけは自由であり続けられ、そして、表現もまた自由だった。
好きなように表現してきた。私は表現の世界でとてつもなく自由だったのだ。
彼は表現の自由を持ってなかったのかな?
私は行動の自由を持っていなかった。
私は、このブログで表現の自由を彼サイドからし続けてきて、最後に「やりたいこと」にたどり着いた。
どうやって人生を歩むのか——である。私は行動ができない人だったのだ。やりたいことが何かわからなかったから。
それは自由が私のなかになかったから。
そして、私はやりたいことをし続けている限り、自由である。
彼が自由だったように、私も彼とよく似た自由を手に入れて、とても満足している。
きっと、根底には嫉妬があったのかな? と思った。
私もまた彼のように自由になりたかったのかも。
そうやって生きる自分を解放したかった。
彼が私を愛してくれたとしたならば、それは自由な私だったし。
私もまた彼の自由を愛したんだなと思った。
彼のなかにある自由と、私のなかにある自由は別物で、代わりにどこかに支配があったから私たちの自由は未開放だった。
自由とはやりたい放題ではない。
何をやってもいいわけじゃない。
してはならないことがある。それは禁止されるべきことだ。
この世には倫理があり、法律があり、国家がある。そして、いつだってそこには他者という存在がいる。
私たちは他者がそこに存在し続けている限り、何をしてもいいわけではない。
だけれど、私たちがもし自己統合を経て、最終的に自由を得ることが出来たならば、きっと私たちと関わる人たちの多くが幸せになれるだろう。
私たちは自分を半分縛り付けることで、発達を速めたのではないかとすら思う。
私たちは自由ではなかった。それは、私たちが自分が子供だと思っている部分に対して縛りをつけるのだ。
子供のままである自分のなかにある意識を忌み、私たちは私たちの子供の部分に縛りをつけては、大人になろうとしていた。
そうやって、自分の中にある未熟さに気づいていたんじゃないかと思う。
これを「自分に厳しい」と言うのかもしれない。
何をしてもいいわけじゃない。これを知っているのは、自分のなかにある他者に気づいているから。
何を言ってもいいわけじゃない、人を傷つけていいわけでもない。
でも、人は意図もたやすく勝手に傷つく。なぜならば、もう既に傷ついているから。
何をしてもいいわけじゃないのに、人は何でもやっていいと思い、倫理を犯している。
私たちには、心があり、精神がある。人権がある。
しかし、その人権というあいまいなものが法の許される抜け穴のまま、通り過ぎて、私たちの存在が冒涜されることもある。
未熟さに気づかないまま大人になる人もいるし、未熟さに気づいてしまい、自分を子供のように縛りつつける人もいる。
いろんな人がいると思う。
それでも、自分が子供であることで誰かを犠牲にしたくはなかったし、誰かを犠牲にして大人にもなりたくなかった。
私は彼を私が大人になるための生贄にはしたくなかった。
優しいまま、大人になるにはどうしたらいいんだろう。
優しい人のままでいられたならば、どれだけよかったんだろう。
それでも、大人になるために、親が犠牲になる必要性がある。
犠牲になれない親が多いのかもしれないと思った。
子供の犠牲になれないでいるから、子供を大人にしてあげられない。
覚悟が決まらないものだなと思った。
子供を育てる覚悟とは、子供の犠牲になることなんだろう。
ただ、これを私は犠牲とは思わないだろう。
なぜならば、子育ては喜びから生まれる奉仕だからである。
奉仕をよく理解しない大人が子供を軽んじ、転落させるんだろう。
今回、私は彼に嫉妬している自分に気づいた。
そして、嫉妬するような自由を持つ彼を愛したのも私なんだと思う。
相反するものが私のなかに芽生え、葛藤し、嫉妬を切り捨て、愛した。
彼を愛して、私は彼が持つ自由を手に入れた。
それから、私が彼を嫉妬している部分も受け入れようと思う。