宇宙に任せる、事実を受け入れ、真実を見つけると現実がやってくる。
Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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「宇宙に任せる」。この言葉の意味が本当にこれでいいのかはさっぱりわからない。
だけれど、私は「宇宙に任せる」をマスターしたい。
私は多くを操作しようとしていたような気がする。もしかしたら、これがエゴと呼ばれるものなのかもしれない。
たとえば、あなたからどのように思うのかを操作しようとして無理をしていたところがある。
それは「好かれたい」からという気持ちからの好意がそうさせた。
だけれど、私をどう思うのかを私はあなたに任せたい。
私はあなたが、あなたの気持ちのままであってほしいと思うから。
もし、あなたが私のレイキを受けようとしてくれるかもしれない。
私は「受けるべきだ」とか「お得になる」と言いながら、あなたがどうしたいのかを操作したくない。
私は自分のレイキを受けてほしいなと思うけれど、だけれど、私の気持ちによりあなたの行動を操作したいとは思わない。
あなたがしたいことをしてほしい。もし、それが私のレイキを受けることならば受けてほしいと思う。
私はあなたが、あなたのままに行動してほしいと思うから。
私がもし何かを失言をするかもしれない。
私は挽回をしようと思うのは、それは私の失言を取り消せると思っているのかもしれない。
あなたが私に失望するようなことがあったとしても、私はあなたが私に失望したそのままを受け入れる。
だけれど、それがもし誤解であるならば、その誤解は解くようにしたい。
人の心も、人の行動も、人の感情も。
私は私以外の誰かを操作することも決めつけることもしたくない。
あなたがあなたのままであれるように、自由であれるように。
私は私の運命についても操作しないようにしたい。
私は、ありのままの自分の人生を受け入れていく。
やりたいことはやる。でも、足掻くことはやめよう。
そのまま、自分のペースで歩いていくのがいい。
私は私の人生を生きるのに、無理をする必要性はない。
等身大の自分の人生を生きるだけでいい。
私は未来に希望があるけれど、その希望を叶えようともしなくていい。
こうしたいなと思っていることを、胸に秘め、ただそれだけでいい。
もし、その未来がやってくるとき、静かに受け取れるだけの準備を整えるだけ。
私たちは宇宙から与えられるものを受け取る。
それは、縁なのか。事物なのかはわからないけれど、受け取れるだけの準備だけをして受け取る。
彼とのこともそう。
じたばた足掻くのを止める。もう何もしないし、何も思わないでいられる。
これを「手放し」と呼ぶのかもしれないけれど、ひとつはすべての覚悟を決めたとしか言いようがない。
その覚悟とは、これから先、もしかしたら、彼が再び現れないかもしれないという不安や、私は結婚すら出来ないのではないかという恐怖。
私はこれらのすべての覚悟を決めることだけが出来ていなかった。
不安や恐怖がもしあったとしても、私たちは「覚悟」を決めればいいだけ。
覚悟が決まっていない私たちは悪あがきをしている。
彼とのことは、すべてを受け入れることにした。
これから先のことも、過去のことも。
過去に、彼が私に対してどう思ったのかいついて。
未来に、彼が私の元へ戻るのかについて。
今、彼がどのように生き、彼がどんな選択をするのか。
そのすべてに確証を持つことが出来ないでいる私たちは、どうにも「答え」を欲しがるものだが、私たちの手には答えがない。
もし、占い師に相談したとしても「答え」である確証はない。
確証がないものを私たちが確証したがるとき、夢の世界に溺れ沈む。
私は、彼に対して自然であってほしいと思う。
それが「私を選ぶのか」という問いかけにたいしても、私を選ばないことも受け入れたい。
もし、私が彼に選ばれないことに苦しみを感じるのであれば、それは私が彼を受け入れることが出来ていないのだということ。
そして、私を選ぶだろうと言う確信もまた、私たちにとっては毒である。
私を選ぼうが、選ばなかろうが、どうであろうが、すべてが彼の自由であり、彼の自由を尊重したい。
それは私自身が『自然』であることであり、そのとき、彼自身もまた『自然』であれるかなと思った。
つまり、私は誰かを縛りたくない。私は誰かを支配したくない。
誰かを傷つけたりしたくもないし、自分だって傷つきたくない。
だけれど、人は誰かを傷つけたくないとき、自分が傷つき。自分が傷つきたくないとき、誰かを傷つけている。
そんなシステムのなかで「誰も傷つかない」だなんて世界を構築することはなかなか骨が折れることだった。
本質は『自然』であることだった。
あなたが自然のままであること、私が自然のままであること。
私が「あなたが自然であること」を受け入れられなかったから、いっぱい足掻くことになったけれど。
だけれど、私が自然であることを受け入れられるとき、私もまたあなたが自然であることを受け入れられる。
それは「何もしないこと」だった。
私は何もしない。ここでただ「ぼんやりしている」ことをしている。
私が何もしないとき、それは私が誰しもを操作しないことを意味している。
私は影響をしないし、影響を与えられることもない。
私はぼんやりと時間の流れをさまよっているだけでいい。
色々と思うこともある。だけれど、それさえも杞憂であることを知っている。
未来を信じる、誰かを信じる。そうやって生きることもあるけれど。
ただ「起きている事象のみを受け入れる」という空の思想に近しい感覚だと思う。
信じるとは、この『事象を受け取る』ことを曲げる。
起きている事象を私たちは信じているとは、おかしい感覚だが、私たちは目の前に起きている事象をただ信じているだけだったのかもしれない。
恋人がいて「その人は私のことが好き」ということを信じている。
これが「起きている事象を信じている」ということ。
「相手が好き」かどうかであることなど、私たちには知りえることはない。
わかるはずもないことを「知りたい」と思う人こそ「信じる」ものなのかもしれない。
かの私は、わからないことを分かろうとし、信じることしかできない人になりさがったのである。
私たちは信じることさえしなくていい。
ただ、目の前に起きている事象のみを受け取っていくだけでいい。
みえない世界、わからない領域。それを『自分以外のこと』とするが、その世界を「知ろうとする必要性」はない。
しかし、知りたいと思う。なぜならば、私たちは傲慢なわかった気になっている愚かな人間たちであるからである。
ただ「目の前に起こり得ていること」だけを受け取っていくとき、私たちは現実世界で生きている。
信じることができることは美徳ではある。けれど、それはどこかで現実を放棄しているということ。
ただ、現実だけを受け取ることが「空の思想」の本懐にあたるものだと思うが、このときの私たちは「信じる」ことが出来なくなっていく。
それは私のことではない他者のすべてを他者に預けることであり、私がどうしようもない自然や宇宙、縁というものを、すべてを宇宙に任せることである。
私はずっと他者を背負い、コントロールしようがないものを背負っていたのだと思う。
すべてから解き放たされ、私のことでさえも「すべてをあなたに預けたい」と思う。
それは、私のことさえ、あなたに預けたいのである。
これは、私があなたに依存しているということではない。
私は、私のすべてをあなたに預け、心のまま、あなたに従いたいと思う。
これを服従と呼ぶのかもしれない。
私は与えられままに縁を受け取り、あなたが思うがままの心を受け取り、起こり得る自然現象を感じ取ろうと思う。
これを私は、縁に従い、あなたの心に従い、自然現象に従い、抗うことの無いような人生を生きる。
もし、新しい縁が生じるのであれば、その縁に従い、
もし、あなたが私から離れていくのであれば、その心の離れた心に従い、私も離れる。
もし、私が天災に見舞われることがあったとしても、その自然現象に従う。
私は、私にとってどうしようもないものに従うことにする。
これは支配されているわけではない。
私は、私が従うべきだと思うから従うのである。これが尊重だと思うから。
人を尊重することは、私が苦しむことのほうが多かった。
だけれど、人を尊重しているとき、私も尊重されているのである。
あなたが私の元を離れるのは、あなたが苦しいからで、そのとき私も苦しいと感じている。
私があなたに従い、すべてを受け入れるとき、私は「ありのまま」なのである。
私はあなたを尊重するときこそ、私を尊重することができる。
そして、今の私は、私を尊重することこそ、あなたを尊重することに繋がっている。
これから、いつ結婚するのか、どこで縁を手に入れるのか等の問題もあるけれど・・・・・・
だけれど、これらも操作することは出来ない。
結婚したいと思っているという気持ちが、ここにあることだけが大事で、どこでどんな縁をどのように手に入れるのかを私が操作することは出来ない。神の領域のこと。
それでも、その縁を手に入れるまで「出来る限りのことをしたい」と思うのが、私と言う存在でした。
そして、出来る限りのことをしたと思います。
出来る限りのことをしたならば、その後、マルッと宇宙にお任せ。
私たちの人生は、自我の及ぶことのない領域を受け取ることしか出来ないし、自我領域外を受け取ることこそ人の生きる道である。
そういえば、昨日、たこ焼きをつくりまして。
たこ焼きのなかでもタコ入りが3つと、10個ぐらいのコーン入りたこ焼きが残りました。
翌日に「タコ焼きチンして食べる」わけですが、なぜかタコ入りが1つしかありませんでした。
おかしいですね。どこでどうなって、タコ入りのたこ焼きが1つになったのでしょうか・・・・・・。
ときに、起こり得るべき事象が、変更されてしまうこともある。
座敷童子の仕業でしょうか。
それとも、世界線が切り替わったのでしょうか。
この世には不思議なことがたくさんあります。
そういえば、昨日「タコ焼きのタコ、食べたくないな」と思いました。固かったからです。
食べる前にも「タコ、あんまり食べたくないな」と思いました。
私が「タコを消した」のかもしれませんし、答えはわかりません。
現実をマルッと受け止め始めると、なぜか、現実の世界線が歪んでいるような気がします。
案外、私たちは「現実」を誤解しているのではないかと思いました。
現実とは「事実だけ」で構成されているわけではないのだということです。真実により現実が構成されている。
『事』ではなく『真』により構成されている。
では『真』とは何か——。
『真(真実)』が『現れる(現実)』日、私たちは『事(事実)』だけを見つめることが出来ている。
私はずっと理論の向こう側にある芸術に触れたいと思っていました。そういう文章を書きたいと思っていました。
事実の向こう側にも真実があるのかもしれません。その真実に触れるとき、私たちは現実を構築している。
しかし、真実の前に存在している事実をガン無視しているのに、どうして真実を手に入れることができるのか。
だから「事実だけを受け取る必要性」があったのだと思います。
とりま、ツインレイ男性はポテチ食べてるし、神だってポテチ食べてると思うぞ。この事実を持って自分と向き合う必要性がある。事実を受け取り切った先にしか真実は現れないからである。
そして『真実とは何か』です。それは『現実』です。
妄想=現実ではなく、
事実=現実でもなく、
真実=現実に切り替えていく。
だから、事実を終わらせなければならない。
真実とは常にあやふやでありながら、私たちのなかに存在しているもの。
その真実が現実となるとき、私たちは「ありのまま」であること。
私がもし真実に触れているのだとしたならば、それは「タコ、おいしくなかった。食べたくないな」っていう気持ちのこと。
そのまま、現実になりました。
神人と呼べる人の能力かもしれません。これから、こういった力を「本当に」使える人たちがでてくるのかもしれません。
その人たちは事実をちゃんと受け入れているからこそ、真実に到達し、現実を起こしている。
つまり、タコを食べ、ゴムみたいで美味しくないという事実を受け入れ、次はもう食べたくないなという真実を受け入れたとき、現実でたこ焼きのタコが消えるという現実がやってくる。
彼くんがいっしょにいても苦しいという事実を受け入れ、いっしょにいたくないなという事実を受け入れたとき、現実で彼くんと別れると言う現実がやってくる。
すべてが心のまま。すべてが真実のまま。
真実に触れているとき、摩訶不思議な現象が起こり得るのだということ。辻褄が合わないのである。