私は自分勝手だったわけではなく、独り善がりだった。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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過去として時間を捉えられるようになり、ふと振り返ってみると、私は自分勝手に振舞っていたわけではなく『独り善がり』という言葉が一番にぴったりに合うなと思った。

それが私の等身大の精いっぱいだった。そうとしか言えないんだけれど、そこにはちゃんと愛情はあったんだけれども。

それでも、未熟だったなと思いました。

自分が独り善がりで提供していたものを相手が受け取れるはずもない。受け取れるはずもなければ、独り善がりの関係性がうまくいくはずもない。

私の真逆に即したものは『自分勝手』だったような気がする。

自分勝手と独り善がりは似ているけれど、全然違うと思う。

自分勝手とは自己中心的といえる。そこにあるものは優劣の関係性を構築すること。自分を優先にするとき、あなたは優先されない。

独り善がりは相手との共存を目指すけれども、うまくいかず、共存の失敗である。

優劣の成功=共存の失敗

ではない。

優劣の成功——優劣の失敗
共存の成功——共存の失敗

である。別々に考えてみる必要性がある。

そして、共存の失敗とは独り善がりのことである。優劣の成功とは自分勝手であること。

そもそも自分勝手に振舞っていたわけでもないのだが、相手を思えば思うほど、独り善がりに陥るシステムなのは優劣の世界のなかで「相手を思う」だなんてやれば、それは独り善がりになってしまうのだと思う。

だからこそ、共存の世界観のなかで「相手を思う」としなければ、相思相愛など成立しない。

 

とにかくも、独り善がりであることが先ずは必要だったのかなと思った。

今は振り返って「独り善がりだったけれど、あのときは、自分なりに最大に愛していた」って感じかな。

たしかに今から考えればすごく未熟なやり方だったなと思う。でも、当時の私にとっては最大だった。それが事実であり、それを認めていく必要性がある。

自分が独り善がりだったと気づくのは、他者の視点に気づくからとしか言いようがない。彼の視点をわずかながらも感じ取り、それが独り善がりのように感じられるんだ。

同じように彼も私に向けて独り善がりの愛情を向けていたような気がしなくもない。

だからこそ、どうしようもないのだろうなと思う。

独り善がりな存在がふたり揃ったところで、そのふたりは共存できるのか、いや無理だろう。独り善がりなだけだから。でも、自分勝手なふたりよりもマシかなとは思う。

通じ合うことができない。理解し合うことも出来ない。それが苦しみの理由だったと思う。

それはちゃんと自分の意見を言えたり、伝えられたりすることなのかなと思うけれど、なんでかそれが出来ていなかったな~と思った。

理由は独り善がりだから。

自分勝手ではなく独り善がりでしかないから、相手の意見なんて必要がなくても『自分が思う善い方向へ向かわせようとしてしまう』のだと思う。自分勝手だと、相手がどうとか関係なしで行動してしまうこと。

つまり、善意がまったく相手にとって善意ではないこともあることに一切気づけない。

最近、私は友達とよく話をしているんだが、ちゃんと本音で話をしている機会が多いような気がする。自分はこう思う、でも、相手が違うことも度々あるんだけど「え! それってどゆことなの?」みたいな話をよくしていることが多い。

そうやって「相手を知ること」を練習させられているような気もする。

 

とにかく、当時の私は独り善がりだった。そして、彼も独り善がりだったような気がする。

善かれとしたことがすべて裏目に出続けてくる。

ここになにが問題としてあげられるのか。すべてはコミュニケーション不足ではないかと思う。

自分を伝える必要性もあるし、相手を知る必要性もある。

そして、自分だけが正しいとか、相手がすべて正しいとか。そんなこともない。

お互いちゃんと『折り合い』の部分が見つけられるはず、それを見つける努力をしていかなければならない。

 

今はもう『後悔』だなんて感じられていなくて。

ただ、未熟だったんだなっていう事実だけを受け入れている。

失敗してしまったっていう悲しみだけではなく、どこがどのように未熟だったのかを理解したからなんだと思う。

後悔がどうして生じるのか。自分がどのように失敗をしているのかを理解が出来ていないから。

でも、後悔したところで、前進しなければ私たちはどこが失敗しているのかすらわからない。

だから『時間』が必要だった。

私には4年ほどの月日が経たなければ、独り善がりだった自分に気づけなかったってこと。

それは、今、私が独り善がりではないから「過去、独り善がりだったことがある」ってことを理解ができる。

そして、私は独り善がりだったときの私を受け入れるし、そんな自分を愛おしいと思うんだ。一生懸命がんばっているから。

未熟な愛かもしれない。だけれど、これ以上に最上の愛はないことでしょう。

だから、このサイレント期間は無駄ではなかったし、彼といっしょにいた期間も無駄ではなかった。

彼と一緒にいた期間の私は独り善がりだった、だけれど、当時の私にとっては最上級の愛を捧げたつもり。

サイレント期間の私は、最上級の愛が『破壊』され、次の段階の愛を知ることができるように勉強をしてきた。

それは『愛し合う』ことを目標にしていた。

独り善がりの愛として、自分が誰かを一生懸命に愛したことがあったからこそ、次に、愛し合うことを知ることができる段階にやってきた。

だから、私はこの5年間に一切の無駄はなかったと思う。

そして、5年前の振り返っての私を思うと『未熟な自分』がいるけれど、それが恥ずかしいとは思わなかった。

私は間違えていたし、勘違いをしていたと思うんだけれど、それがなかったら、今の私は存在していない。そんな自分を恥ずかしいとは思ってはいけないなと思う。

失敗しなければ、私はその先を知ることが出来なかった。

 

過去の自分と今の自分を比較して、今の自分がどのように成長したのか。

それをしっかりと言語化できる。それはどこがどのように過去はこうだったけれど、今はこのように変わったと言語化されるとき、私たちは過去の自分と今の自分を比較して生きている。

そして、私は未来の自分と今の自分を比較して『共存思想』を建てたつもりだし、未来の自分の背中を追いかけてきた。

過去の『独り善がり』から未来の『愛し合う』へと移行し、私は今『愛し合う』にまで到達できた。だからこそ、過去の独り善がりな自分を認識する。

この経緯が大人になることなのだなと思う。

 

独り善がりであったとしても、彼と愛し合うことが出来たあの日々はとても素晴らしい青春だったと思います。

つまり、独りよがりの愛を受け取ってはいたのです。だから相思相愛にはなっていた。

でも、独りよがりであることは違いなかってん(;’ω’∩)