私のなかにあった他者からの恨みと他者からの好意という表裏一体。

Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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彼のことが好きだ! と実感できて、ひゃふー! めっちゃ幸せ! みたいな心理のまま、自己レイキを続けていたところ、おやおや・・・・私のなかに何かいることに気づいた。
「きぇえぇえぇぇ」って叫んでいる『何か』なのだが、たいていは飛ばされた念とか生霊の類なんだけれども、私のなかに入り込んでいる寄生虫みたいな感じになっていた。
それは私と彼が離別した当時に、私が仲良くしていた他の知り合いである。
その知り合いが、私と彼との間にお邪魔虫みたいに挟まっていた。汗
レイキで外していくと、その人の家が燃え盛っているのが視えた。
・・・・・・え、燃えた・・・・・・・? 何事もないといいなと思いました。
その知り合いは、私と彼が「別れればいい」とか「私が不幸になればいい」と願ったみたいです。その願いが私のところに飛んできていた感じ。
これ。呪わば穴二つだから、知り合い自身も私を落とした分だけ不幸になったかもしれないね。
ここ最近、自己統合したものなんだが、それは「人のせいにする」ってこと。
私はずっと自責の人だったのもあって、ことあるごとに「いや、何かのせいにしたらいけんよな」と思って、ある程度のことは自分の問題は自分で引き受けるようにしてきたつもり。
人のせいにする=悪 だった。
だけれど、ここにきて「人のせいにすることすら悪ではない」ってことに気づいてしまい、人のせいにすることも受け入れることにした。それはもちろん、誰かに私のせいにされることも受け入れるってことを意味する。
でも、私のせいにしても、人のせいにして事実をなかったことにすることは出来ないと思う。
人のせいにすることも受け入れていくと「私のものではないもの」に気づきやすくもなるな~と。
で。もうひとつ自己統合したものがあって。
それは、私のことをずーーっと片想いし続けてくれた男の子の思念をもらってた。
こっちも気づかなかったというか・・・・・・・。え、片想いしてくれてたんだ、ずっと好きでいてくれていたんだっていうことにちょっと驚いた。
ありがとうって好意をいただいくことに。
でも、それは私のなかにある『私のことを好きになる意識』が分離していて、それを、その男の子が役割として担ってくれていたみたい。私の自己になってくれていた。
つまり、片想いし続けてくれていた男の子は、私自身。私自身だと気づいて、自己統合した。
「人を好きになる自己」が分離していたんだなと初めて気づいた。
その自己は、連絡すらとっていない10年以上前の知り合いだったりする。
今も思念を送ってくれていたんだって思うと、ああ、今も好きでいてくれているんだなって。ちょっと嬉しいよね。w
でも、もういいよ。ありがとうってことで自己統合させてもらった。
それは私自身だから。私の望むあなたじゃなくていい。
で、この自己を体現してくれていた男の子が経験している気持ちを、私も同じように今、経験している。
今回、私への恨みと、私への好意がいっしょにでてきたんだけどね。
これ、表裏一体なんだと思います。
恨み(好きが嫌いに転ずる)——好き
同じこと。思念は思念。好きだったものが嫌いになると恨みになったりする。
でも、嫌いなのは自分のことなんだよな、これ。
本当は「心から好きな人を嫌いになるなんてことはない」んだよ。
で、もしかしたら、好きが嫌いに転じてしまう人は、その人を好きになったんじゃなくて、自分が好きだっただけかもね。
自分が好きで、自分が嫌い。だから恨みが生まれる。価値の倒錯が起こりやすい。
本当に他者を好きになった人は、一途にその人を好きでい続けることができるものなのだと思う。
誰かに一途に好かれた分だけ、誰かに執着されて妬まれ続けるものなのかもしれない。
どちらも同じことなんだけど、決定的に違うのは他者を純粋に好きか、自己投影によって他者を好きになるのか。
自己投影による好意は、恨みが生まれるもの。好きになって嫌いになるから。この格差が恨み。
じゃァ、恨みってなんなのか? それが『自己における善悪の分離』なんだと思う。
自分が常に善人である意識は、恨みを生む。自分は間違えていない、自分は正しいことへの固執が自分は正しい、相手は間違っているという意識が生じることになる。正しい人を好きになると、嫌いになるリスクが高いんだと思う。
ずっと、私は「彼のことを知らない」って思っていた。
自己投影だと思っていた。でも、そんなことなかったんだなって思えた。
ちゃんと私は、自己投影ではなくて、彼自身を自分の中にある審判によって正しい人だから好きになったわけではなくて、彼自身を見つけて好きになることが出来たんだなって思いました。
私は自分が好きだったから彼のことを好きになったわけじゃない。私はちゃんと彼が好きだった。だから、今も私のなかに彼への恨みはない。
私のなかにあった彼への恨みは、人に突っ込まれていたお邪魔虫って感じやな。で、自己投影による好意(私が私のことを好きという自己分離)は、他の方が引き受けてくれていた。
他者への好意——恨み(他者の思念)——自分への好意(自己)
この三つ巴構造が生まれていたな~と。
わたし、彼のことがちゃんと好きだったよ。だから、今、彼のことを思い出すととても幸せな気持ちになれる。
自己である場合、自己を演じる意識が外れてしまうと、その人の好意は消失する。たぶん、私に長年片想いをしてくれていた方は、今はもう、私への好意はなくなっていると思う。私が求める他者を演じてくれていたって感じかな・・・・。
恨みに関しては、自分を大事にしてもらえなかった思いが恨みになることが多い。ホント、恨みって基本的には「相手が大事にしてくれなかった」っていう想いの塊でしかない。これはもうリリースして終わりかな・・・・・。
この男性三人が私のなかにいて、恨みの人も、自分の中から外してしまえば、私は忘れてしまう。
自己の投影によって演じてくれていた私を好きでいてくれた人も、私が自己統合してしまえば、私は忘れてしまう。
人に恨まれたこと、人に好かれたこと。これは私の経験ではないから忘れちゃうんだ。
私ではない誰かの経験。
でも、私は彼くんのことを忘れないと思う。
彼のことを心から好きになった私の経験を、この気持ちを私は生涯、忘れない。