私は私を演じきった。(1)

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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今日、たまたまAmazonプライムに入っていた三島由紀夫のドキュメンタリーを見た。

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実というドキュメンタリー。

ちょっと思ったことを書き留めておきたいと思う。

『演じる』ということ。それ以外にも色々あるんだけれど、とにかく、これについて書きたいと思った。

三島さんは最後、自衛隊基地で自分の決意のもとに演説後、自決している。

それをドキュメンタリーのなかで抽象的な論争をしていた芥さんという方が、現在での言葉を遺している。

「よかったよかったと思った」と。

自決して、それで「よかった」? だって三島は死んだ。

そして、その理由を「彼は大芝居をしたんだから」と言った。

まさに、三島さんは最後の最後に「自分がやりたいことをやり抜いて死んだ」わけなんだが、彼がやりたかった大芝居をして最後は迷惑をかけた存在だからこそ、警察のお縄にかかる前に自決したわけである。

 

これは何を意味しているのか。この話が私に通じているのか。そう、私が『人を愛する人間を演じる』ことに繋がっている。

私は「人とはそうあるべきだ」というカタチで、人を愛する自分を演じていた。つまりはここに無理があったとも言えるんだが、そうあるべきだと思っていたから、それは意思の元に行動が起きた。

よく巷で語られる自己愛性人格とは『自分を愛するがあまりに他者へと迷惑をかける人』のように語られるが、三島さんも同じようなものだし、私も同じようなものである。

結局のところ「自分がなりたい自分になろうとしているナルシスト」って感じ。これが自己愛性人格と呼ばれているもの。ある種、自己愛性の成功者は、自己ブランディング能力を手に入れたり、表現力を手に入れたりしながら、最終的には「なりたい自分を演じきる」ことに注目する。

いわゆる他者から自分がどのように見られ、どのように思われているのか、どのような存在だと思われたいのかを自己表現することに長けているということ。

この気質、私にもあるわけで、また、この自己愛というものが誰しもに存在している気質だと思う。

他者から求められているだろう自分を演じきること。これが『自己愛』である。いわば、私は『自己愛者』であり、他者に求められたことは「あなたを愛すること」である。

三島さんがすごく人格者である理由も、すごく優しいんだろうなってことも、映像を見ていたらわかる。でも、そのすべてが自己愛なんだってこと。自分のなかに存在している他者を愛している。

また、自分のなかに存在している他者の期待に潰されていくと、自己愛性人格障害という『障害者』になる。自己愛性人格と言葉にするけれど、自己愛性人格とは、ままカリスマ性のある人間でもあるし、人格者でもあるってこと。

でも、カリスマもなければ、人格もない。自己の期待に応えられない自我が障害者となっていくんじゃないかなと思う。

そして『演じること』だが。

結局、それは「私自身ではない」と言うこと。

本来の私自身は「愛することができる人間」でもなければ、人格者でもないし、有能な存在でもない。普通のどこにでもいる一般ピープルなわけなんだけれど、よく私がギフテッドだって言われる所以も、結局は自己愛による他者による期待にこたえ続けた結果、こうなってしまったって感じだろうか。

その結果、三島さんは死んでしまった。三島さんがなぜ死に至ったのかは、彼が青年時代に戦争が終わってしまったことがあげられるが、三島さんの分析は今回は省くけれど、おおまかな個人的な解釈では、死に場所を求めていたこと(戦争が終わってしまって、当時の青年たちはお国の為に死ぬというアイデンティティを失ったがゆえに、何の為に生きたらいいのかがわからなかったと思うし、そういう感じだったっぽいね)と、自己愛性が極まり『演じきること』に至ったからだと思う。

つまり、私が「愛する人格」を演じきり、やりきったように。そして、私が「愛は破壊」と言葉にするように、私は私を愛することで破壊しきったように。三島もまた、演じきることでやり抜き、やり抜いたら「破壊」がやってくるしかなかったんじゃないか——って思った。

私たちは、自己から求められる自分を演じ続けているし、それを演じきったら、次は『自己破壊』が起きてしまう。その自己破壊が三島さんは自分に刃を向けることだったし、私はフラフラの離人症状態になってしまうことだった。

私は、彼を愛しきった。それは「愛を体現しきった」のみにあり、私自身が「愛だった」とかいう話ではない。私は「愛という芝居をした」「愛を演じた」に過ぎず、演じきったならば、その一幕は終わってしまう。

舞台が終わったのだ。終わって、演じている役から降りる。降りるとき、私たちは役目を終える。もしかしたら、これを『使命』とも言えるのかもしれない。自分が演じたいと思っている自分を演じること。それが悪だとはまるで思わないが、そこにある使命の使い方は、人に求められている自分を演じきる役者であり、三島もまた時代に求められた自分を演じきることに努めたにすぎない。

私もまた、同じように、家族に求められた自分を、社会に求められた自分というものが『愛』だったからこそ、愛を体現しきったに過ぎないわけである。

また、その自己愛が体現しきれるときの私たちは、破壊を受け入れなければならない。

私は、家族に求められる自分という存在をやり切ったのだなと思った。私は『自己愛』を極めたわけである。他者に求められる自分を演じきり、最後の最後に、幕を閉じた。

そして、私は「すべてが断ち切られた」わけである。破壊である。

それまで演じることで手に入れた縁のすべてを切り、演じることで手に入れた自分を捨て、演じることで手に入れたものすべてを私は断ち切る。破壊しきる。

破壊したら、次は「どんな役をやろうか」っていう創造をする。自分がなりたい自分になっていく。

とはいえど、今度は他者ではなく、自分が求めている自分へとなっていく。これが自己実現にある。今までは人の望む自分になりきったが、次は自分が望む自分に成るわけである。

他者に求められた自分を演じることを終わらせること。これが自己統合。
他者に求められる自分を演じきることが自己愛。

自己統合と、自己愛が終わると、次に自己実現がやってくる。

いや、少なからず、自己実現とは終わらせているものかもしれない。家族に求められている自己により実現された自分を『自己実現』と言うのであれば、それはもう私は済ませている。彼の前で、私は自己実現を果たし、演じきったのだから。

自己統合、自己愛、そして、自己実現。

この次にやってくるもものは、自我と自己の反転により、自我実現へと至るんだろうなと。三島さんの場合、自己のなかにあるものが『自決を求められている』だったら、最後は死を選ばねばならなかった。

自己実現のなかには必ず破壊が組み込まれている。

私の場合の自己には『愛ゆえに離別することが求められている』わけである。ゆえに、関係性の破壊が起きる。

自己実現のなかには『破壊』があって、その破壊がどのようなものかはわからないんだが、自己実現とは、タロットカードの塔のようなものだなと思う。ハリボテが壊れる。

私たちのなかに存在している『自己』とは家族から培うものだが、それは自分自身により構築された自己ではないがゆえ、ハリボテの自己なのである。

タロットカードがでてきたので、ここでひとつ流れを読んでみたいと思う。

  1. 節制・・・調和
  2. 悪魔・・・自己愛の完成。悪魔のような自己がやってくる。裏切りや嫉妬など。
  3. 塔・・・自己の破壊。自分の世界が一回壊されつくす。
  4. 星・・・念願。真我の芽生え。
  5. 月・・・不安。願いがかなうかどうかわからない、先が視えない不安。時間が過ぎるのをただ待つ。
  6. 太陽・・・真我により新しく生まれ変わる自分。
  7. 審判・・・新しい自己の形成。
  8. 世界・・・真我と自己の共存。

というよな流れかなと感じている。

いわゆる、自己をすべて迎合せねば、自己愛は完成されない。悪魔の選択をせねばならない。

愛により悪魔の選択を受け入れるとき、私たちは自己破壊が起きる。自分の世界(自己という他者)がすべて崩壊しきり、次に、念願が生まれる。いわゆるこれが『自我』であり、私はこれを『心』ともしているし『真我』と、ここでは定義している。

しかし、自己が破壊され不安定となっている状態が俄然と続く。この段階では、月のように満ち欠けをするように揺らぎやすい時期といえる。

揺らぎやすい精神的な時期を抜け出すことで、次に、自分とは何か——のアイデンティティを再構築することに成功する。これが『新しい自分』である。新しい自分を軸に自己を形成してくんだが、これが審判である。

審判とは「好きな自己を選びなよ」って感じになっている。好きな自己を選んでいいとは、結局、自分自身のことなんだから、自分の精神そのまま組み替えれば、好きな自己が形成できるわけだ。ここで審判をするのは、自分自身であり、自分自身の思想により、自己は再構築を繰り返していく。

いわゆる、審判によってチェンジを与えられれば、自分を再構築を余儀なくされるし、自己投影された相手も、チェンジされる、または再構築を余儀なくする。

この自己がすべて完成するとき『世界』である。その世界に悪魔がいるかどうか——が結論である。

では、悪魔とは何か。自分が持つ悪たる心にある。人のせいにする心だし、被害者意識だし、加害者である。その心を排しきることができるかどうか、向き合いきれるかどうか——で、最終的な審判を繰り返しながら、世界を構築していく。

星(こうでありたいの願い)
月(自分の心と向き合う)
太陽(成功)

により、自己の再構築を行う。最後の審判で、自己に対して許しがだせる(他者を許せる)とき、世界へと切り替わっていく。それは自分を許せるかどうか——であり、他者を許せるかどうかである。

節制とは『自我』と『自己』のバランスをとっている。このバランスが上手くとれないとき、停滞感やマンネリみたいになる。話が先に進まない。話が先に進まないのは、真なる調節がとれていないから。

 

悪魔とは何か——だが。

破壊を孕むものだと思う。

感情レベルの憎悪=現実レベルの破壊。