彼を信じていた。

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Kindle版
さよなら、ツインレイ
当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。
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私は彼を信じていた。
ここにあるものは期待なのかと思ってた。
違う。私の中にあったものは、彼を信じる気持ちだった。
私が私のコックピット席に戻って教えてくれたことは『誰かを信じる気持ち』だった。
私の主導権を握っている人格は『信』だった。
私は彼を信じ抜いた。私はそうやって誰かを心の底から信じ抜いては大人になってきた。
これが私の『魂』だと思う。
私の『誇り』だと思う。
私は魂を売らず、高潔であり続けられたと思う。
何があっても、私は誰かを疑うよりも信じようと思って生きてきた。
どうやら私は彼に魂を抜かれてしまったような気もするし、私は彼により、『信』を分離させ、結合させたのだと思う。
私はあなたを信じている。これは出来ていた。裏側に生まれたシャドウは、私を信じなかった。
私はシャドウに信じてもらい、結合し、私は自他による『信』を構成した。
私はあなたを信じられたけれど、あなたに信じてもらえる私にはなれていなかったのだ。
だから私はシャドウを結合することで、あなたに信じてもらえる私になった。
え、五徳やん(゚ロ゚)最後の1個が信で、ほかの四つが成立することで信が出来上がるらしい。
思い出したこと。
この世には自分の善悪があり、国の善悪があり、世界の善悪がある。
私のテーマとして、国の善悪として大麻があって、世界の善悪としてコロナがあった。
確かに大麻は人体への問題が少ないという話もあるかもしれない。でも、国が大麻は犯罪だと政治的に定めている。それに従うこと。
確かにコロナはもしかしたら存在しないのかもしれない。でも、世界がコロナがあると判断しているのであれば、コロナは存在している。だから自粛をする。国の意向はそこにあるから。
私は自分の善悪ではなく、国体や世界の意向を受け入れて生きていくことが大人だと思う。
自分の善悪が国や世界の善悪ではない。もし、自分が本当に正論だったとしても、従うことが出来ないのは子供だと思う。
それは支配されているわけではない。
私は自分が日本人で地球人であることをアイデンティティとして認めている。だから私は国や世界の意識に従う。
国体やねん。国と一体化してるねん。一体化しているものに対して支配もクソもないんだよ。
社会に一体化が出来ていないから反発したくなる。それはママとへその緒がくっついてるってことなんだよ。
私は大人だから、国体に出来る限り添うように生きたい。
ずっと子供は産めないって思っていた。本来ならば、女性として子をなすことが務めである。
それを放棄していることに、私はずっと申し訳ないと思っていた。
でも、ようやく、その役割を担うことが出来るほどになれたと思う。
ようやく国体に添える。
心理学と社会学は対立しうるもの。
社会学には女性としての役割を担うことで救われるものがある。
でも、心理学的には女性との役割を担わずとも、女性としての役割を担っていることに気づくことが救われることに繋がっている。
でもね「子供を生まなくてもいいんだよ」って子供が欲しい人に言えるか。
心理学は否定の解消には役立つが、否定の解消が終わったならば、次は社会学へと進まなければならない。
これが『大人になる』ってことだと思う。
大人からすれば、大麻はいいものなんだよとか言いながら吸っているのは犯罪だし、コロナ自粛時に自粛しないのは迷惑行為。
社会からしての自分を如何に構築するのか。その視野がどれほどのものなのか。
そして、役割をちゃんと担っているのか。
これからは個の時代になるとはいうけれど、国が崩壊するわけでもなければ、国境がなくなるわけでもない。
未だに戦場地帯もあれば、ポル・ポト政権のような大量虐殺の話も昨今の話。
社会から目を背けて個にばかり着眼し続ければ、お花畑の世界観になる。
より心理学的な世界へとは進んでいるが、同時に社会学的な世界も求められるようになる。
個である意識が強くなるとは、より社会的な意識も広くなるってこと。
個としての自分を大事にしたいって気持ちは、社会との一体化が出来ていないってことでもある。
社会からとの一体化ができるようになれば、そのなかで自分を構築していき、個の自分を自ずと大事にすることができる。
これが『大人の個人のあり方』だと私は思う。
束縛の中にある自由だし、自由には責任が伴うってこと。
社会という束縛のなかであれば、私たちは自由にやっていい。でも自由である限り、責任がある。
資本主義かね。
法律という束縛の中(社会との一体)で自由にやっていいけれど、自由に行動した分(個)だけ、そこには責任(社会と個の繋がり)が生まれる。
法律上で婚姻届があるから、自由に結婚をしてもいいけれど、そこには『結婚することによる責任』が生まれるよ。
責任が取れるようになったら、自由に結婚していいよ。でも、責任が取れないんだったら結婚するんじゃねえってことだ。
最近「自由になりたい」といって離婚する男性が増えているわけなんだが、だから婚姻届があるんかな? とも思う。
責任を取らせるために。
自由には責任がある、責任をとらないのが子供。
でも、本来は逆なんだよ。責任を取りたいから婚姻届をだして社会的に認められる自分となり、責任を果たすことで自由が生まれる。
結婚は『自由』なんだよ。大人が手に入れられる自由。でも、そこに責任がない自由はある種法律違反なんだよね。
責任がない自由ってなにかっていうと『無責任』ってこと。
そもそも違うんだよな。
結婚することは自由になることなんだよ。離婚が自由になることではない。結婚で私たちは自由になっていく。
そこに責任がある限り、いくらでも子供を作っていいし、自由にしていい。
自由になる。そこには責任がある。
自己責任がとれる大人になってこそ与えられる自由がある。
その自由は時に世界が落ちている時、不自由にもなるけれど、みんなが不自由の中で自由にしている人達は迷惑だったって話でもある。
そして不自由であることが受け入れられない人もまた自由な人たちを目の敵にしては自粛警察が生まれる。
自分が不自由なとき、世界も不自由になっている。それを受け入れられて、ようやく『大人』だと思った。
結婚もおなじ。自分が不自由なとき、伴侶もまた不自由である。
運気みたいなもので、上がったり下がったりするなか、誰かと共に生きるとは、そのようなこと。
大人になるってこの国を、この社会を受け入れていくことなんだと思う。
社会が受け入れられない人が増えている時、国が傾いていくと思う。
子供じゃないと革命は起こせない。
革命をするのは個における善悪により剣を振り回す力がある人達。その個の力が集合するとき、社会へと転ずることがある。
でも、革命後に国を統治するのは大人。
子供は革命家になれるけど、繁栄はできない。
繁栄の力を持つとは、そこに責任があることだから。革命が出来るのは無責任だからでしかない。
繁栄は責任があるけれど、革命は無責任。
どっちが善というわけではない、流れがあるんだと思う。
そして、子供の頃の心を忘れていない大人は、革命と繁栄を行き来しながら発展をする。