彼に連絡をしたい欲求が込み上げてきた。(欲求の自己統合)
ストーブの前でぼーっとしていたら、小さな声で「彼くんに連絡したい」って気持ちが囁かれた。
連絡していいんだよ。
そう伝えたら泣いていた。
これも『許し』なのかも。
思い出したことがある。
彼に連絡をするのを、なるべく控えていたこと。
連絡したいのを我慢していたこと。
この連絡がしたいって気持ちを行動や発言で肯定するのではなく、心で肯定しなければならなかった。
最近、考えていること。
禁止が多いなってこと。
あれがダメ、これがダメ。多いなって。
他人に対してってよりも、自分に対して禁止が多くて、禁止が余計に欲求を生んでいる。
禁欲されると、余計にそうしたくなる。
欲求――禁止
この構造のうち、禁止が勝るとき欲求の分離が起きる。
禁止を肯定する。
分離された欲求を迎合することで自己統合を迎える。
欲求の暴走は、相手へ迷惑をかけたらいけないとか、相手への配慮によって禁止される。
いわば、相手への思いやりは禁欲意識になる。
だけれど、禁欲しすぎることで欲求の全否定が生まれることに繋がっている。このときに他者愛が生まれる。
つまり他者概念として『欲求の分離』が生じる。
このとき、欲求は禁止によって本体から分離しているのもあって、禁止を解除しないと自己結合ができない。
私の場合、連絡をしたい=相手になる。
相手から連絡が来る――という認識の世界が生まれる。
つまり、私が連絡をするという過去に存在した欲求は自己同一意識。
私に誰かが連絡をするという未来に存在する他者の欲求は自己結合意識。
このふたつが重なるとき『今』という概念が生まれる。
今、私があなたに連絡したいとき、あなたは私に連絡をしたい。
これがインスピレーションってことになる。
直感って理論で成立するし、直感を逆利用して引き寄せを行うこともできるんだなって思った。
逆に、この仕組みが心の中で成立している理由は『相手への思いやり』が自分の欲求よりも勝っている経験が過去に一度、必要である。
つまりなんだが。
道徳の素晴らしさってここにある。
あなたが如何に相手を自分のこと以上に大事にしたのか。その経験はすべて悲しみの経験とはなるけれど、未来という概念の前では、あなたへ喜びをもたらすことになる。
そのときの私たちは、過去への執着が手放された瞬間、未来が生まれ、今に生きることが出来る。
逆に言えることなんだが、相手への思いやりや道徳心がない人が『直感がありました』っていうものは、この理論上では思い込みと思い上がりがありますって意味になってしまう(›´-`‹ )
欲求と(道徳による)禁止。このふたつが成立しないことには、欲求の暴走状態。
禁止って何? っていうと前頭前野なんだよな。
あと、引き寄せやすい状態に自分を持ち込めば良いだけで、たいてい皆、欲求があるとしたら、禁止しているから逆に『引き寄せたいもの』が生まれるのである。
だから、自己統合したら引き寄せられるよって話になってくる。
でも、その禁止が道徳として成立するかどうか――ではあるとは思う。人に言われてやるのは子供だよね。同一状態で分離していない。
でも、レイキでヒーリーさんたちの自己統合をよくやっているけれど、ガチの悪みたいな意識は見かけたことないかな。
たまに半狂乱人格とか、悪魔人格とかいるけれど、なぜそこに人格があるのかっていうと分離させているからなんだよね。
発狂を分離、悪魔を分離。なぜかっていうと、道徳心があるからなんだよな。