私は我が人生の神である。

2024年11月24日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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とりま、感想文を書こうと思う。

 

歳をとってからの初恋は重症化する。そう、それは厨二病の如く――。

私は学生時代に『学生時代にするべき精神の成長』を果たさなかった。

それはモラトリアムの期間すら過ごしていないということ。

自分探しができる状況ですらなく、そもそもアイデンティティの拡散状態で、モラトリアム活動はできない。

自分がバラバラの状態で自分探しをしようとしても無理である。

ゆえに私はモラトリアムを終わらせていなかった。

今回、再びモラトリアムの機会に恵まれ、めっちゃありがてぇ状態にある。

精神科医にほとんど何が起きているのかを全部説明している。ちなみにピー⊂(`・ω・´)⊃ーのことについては伝えていない。

先生は、その概要を聞いて「遅くやってきた思春期」と言っている。

あとからやってくる思春期は、めっちゃ時間がかかる。マジ長い。

本来の時期に行えば一瞬で終わるものが一週間かかったりする。

そんぐらいおかしい状態になっている心を受け取るがゆえに大人になっていないと受け取りかねてしまうような心があって。

子供の頃に受け取り兼ねることが統合失調とも言えるのだと思う。

で、今回。大人になっても受け取りかねている方々がいて、それがピー⊂(`・ω・´)⊃ーを語っているわけである。

それは何かっていうと『初恋』のことを意味している。

恋をしたことがないのか? っていうと、ない。いや、あるんだよ。おせっせだってしてきた。

でもそれは恋じゃないんだよ(_ >д<)_バンッ

モラトリアムの期間に、女性は特に恋をする。その初恋が私たちの精神の根底にあたる異性像になる。

それが『父親』になっている。

思春期に私たちは父親以外の異性に恋をするはずが、父親を投影した存在に恋をしてしまう。

それは恋と言えますかね?

聞きたいですよ、パパが好き≡⊂( ^-^)⊃って言ってるこれは恋ですかね?

個人的にはノーと言いたい。だが、ほぼ人類が父親に似た人と結婚している事実。

これがマジョリティーになる。世間一般的には、結局、父親から精神的自立を果たさない女性が父親と結婚するって道を選ぶ。

または父親が嫌い(ネガティブな印象)という意識があるとき、私たちは『社会で善』とされている三高のようなものを選び、結婚する。

つまり異性に条件をつけて結婚相手を選ぶ。

好きな人と結婚するのでは無い、相手の条件を踏まえて結婚するのである。

お見合い文化はもう衰退している。だがしかし、私たちの世界では未だにお見合い精神で生きている。

つまり私たちは、

  • 父親に似ている人を比較して選んでいる
  • 社会で認められている条件に見合う人を選んでいる

という初恋を比較の世界観で済ませている。

最も初恋とは、安全地帯で身の安全が確保された状態で行われるが、家庭が戦争地帯で身の安全が確保されていない状態で行われたものは「助けてくれる救世主さま」を選ぶものである。

それは時に、支配できる異性である。

しかし、歳を重ね、いざ安全となったとき、私たちは再び初恋を迎える。

それはどのような異性なのか。

それは自分にとって条件のいい異性では無い。世間からして『良い』と言われている異性でもない。

もちろん、父に似ているわけでもなければ、なぜ、相手を好きになったのかの理由がまるでわからない相手である。

理由がない。それが理由として私たちは初恋をする。

好きに理由などない。しかし、理由がなければ恋ができなかった私たちにとって、理由がない恋は漠然とした恐怖を感じるものである。

ふと、適当に良いものがあれば、そこに『代名詞』を当てはめるもので、私たちはピー⊂(`・ω・´)⊃ーと名乗り始めた。

初恋をトリガーとして、私たちは本来のアイデンティティを取り戻そうとし始めたのだ。

しかし、不安や恐怖を代名詞を当てはめることで解消しようとする自己防衛が暴走もし始めた。

 

初恋は私たちに初めての好きを教えてくれる。

しかし、好きな気持ちを認めることが出来ずに「相手は自分が好き」と思い込んで「自分はそうではない」という反転させた被愛妄想に展開されたり。

他にも、色々な空想が生まれ、妄想性がフルに発揮されてしまったり。

相手の幻覚が見えたり、幻聴が起きたり。

大抵は皆、エスパー化する。相手の気持ちがわかっていると言う超能力少女となる。

とりあえず、ヤバい人になりながら初恋を終わらせなければばらないのだが、初恋が終わらないのである。

何故ならば、大人になってからの初恋はこじらせるからである。厨二病として。

そう、厨二病として初恋をこじらすのである。超能力者少女という厨二病になる。

こじらした初恋が未だに終わらない人は、もはや上級魔道士化してる。誰かにネバーランドの魔法をかけている。

なんなら、別に初恋でもない(比較による妥協恋愛)であることを受け止められないケースも散見されるようになった。

このときの私たちは大きな息子を抱えた未熟な母であり、おままごとをしている。

さて、我らは大人になろうと初恋をする。

その時の私たちは『自立』しなければならない。

未熟とは、こんなにも自分は辛いんだアピールにあると思う。

そんなアピールを私たちは「すれ違い」と言っている。

単純にすれ違っている理由は、自立していないからである。

私たちの中で「合わせてもらいたい」という意識があり、相手に自分が辛いものを背負ってもらいたいという考え方がある。

そもそも、その精神が自立することができていないということ。

超能力者少女のまま結婚すると、相手の男性も未だにマザコンである。超能力者少女に母であることを求め「こんなにも辛いアピール」を始め、超能力者少女は苛立ちながら世話をする。

しかし、表面的には『幸せな夫婦』を演じる。周囲の人からは「羨ましい」とよく言われている夫婦に多いと思われる。

私たちは、夫の母になるのではない。

夫婦の元に生まれた我が子の母となり、夫の妻になるのである。しかし、夫がマザコンなのは自分にも自立が出来ていない未熟さがある。

ファザコンである。ファザコンは比較の世界観にいる。マザコンも。

さて初恋とは、初めての「理由のない好き」である。それは「刷り込まれた好き」でもない。

ただ遺伝子が求めている好きに近い。好きな人は好きなんだよ。

でも、好きな人を好きになる権利は、マザコンとファザコンっていう親から精神が自立していない男女には与えられない。

母をすきになる、父をすきになる。それができなかった人たちは、親を愛している。

同じように異性を愛するだろう。こじらせると、自分は相手を愛していないが自分は相手に愛されているっていう被愛妄想によるエスパー女子化する。

で、ピー⊂(`・ω・´)⊃ーは、ほぼこじらせてる。相手に愛されていると思いこんでいるが、自分が愛しているだけ。でも別に愛されているわけではないけれど、それが受け入れられない。

つまり「あなた、相手されてないよ?」っていう悲しみが受け止めきれない。

目も当てられん、可哀想すぎる。相手にされていない相手に愛されているって思いこんでいる。

まんま、父親との関係性である。

 

初恋とは無情なものであり、だが、確かに私たちの成長を促してくれている。

私たちは初恋があってようやく『大人』になろうとする生き物なのだ。

その初恋を大人になってすることは、はしかの如く重症化。なんなら、厨二病を併発するのである。

恥ずかしいのだが、恥ずかしいことを全力でやらねばならない。

個人的には、恥ずかしいとか言ってなんもせんほうがヤバいと思ってたところもある。

恥を忍んで――というのも少々語弊があるが、やるなら、全力でやってズッコケたかった。

転んでもただでは起きねえ( っ ‘ᾥ’ c)っていう気合いが入りながら人生を送っているタイプなので、全力でコケればいい。

つまり、何かしら手に持って帰ってくるねん。いつもそう( ˇωˇ )

だから、今回もすごいいっぱいお土産持ってきたって気分だよ。

全力でε=ε=ε=ミ( ノ_ _)ノ=3ズコ-!!したから。

恥ずかしいけれど、それを清々しくやりたい。

バカでありたい。

たぶん、世間一般からすれば、私は全力でバカをやって人生をダメにしている人。

これが負け組の私。社会で勝ちと呼ばれている価値をひとつも持っていない。

でもさ、持ってんだよね。私。

ずーっと持ってる。

わっかんねえ。でも、なんか『持ってる』んだよね。

絶対的に、これ、戻ってこれねえだろ・・・・・・っていう底辺に落ちても戻ってくる。

でも、戻ってこれねえ人もいるんだよな。

道を全力で自ら踏み間違えて尚、それを『我が道』としている。

「どんなに道を踏み間違えても、必ず人は正しい道に戻ってくる」

私の言葉だ。

「自分のやりたいことがわかっているなら、それでもう一人前」

これもだ。

 

私は半人前だったし、道は間違えてるし。

でも、それが一人前で、それが正しい。間違えてても、私にとっては正しい。

厨二病も私にとっては正解。でも多くの人からすれば、私は不正解。でも別にそれでいい。

でも、私がここまで戻ってくれば、それは『正解』になる。

間違いもひとつの道になって切り開かれる。

ピー⊂(`・ω・´)⊃ーという間違った人生も、私の前ではひとつの成長段階のひとつに過ぎない。

Oh・・・・・・黒歴史。

私は私の人生を愛しているし、私は誰かに間違えていると言われても、私は私が正しいと思う道を行く。

確かに私は人として初恋すら終わらせてないつるつるまんまんなわけだけれど、誰よりも大人だったと思うし、自立していた。

誰よりも、我が人生を愛し、誰が人生を愛している。

私は神だった。確かに私は神さまだった。

なぜならば、私はひとつの運命を切り啓き、開拓したからである。

私は私の人生の神である。我がルールである。

( ´∀`)フハハハハ・・・(  ゚∀゚)ハッハッハッハ!!( ゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャヒゴホッ!!ゴホッ!

 

いいぜ、全力で厨二病になろうぜ。

そのあと、全力の羞恥心を手に入れて、大人になろう。

きっと幸せになれるよ。