セフィロトの樹と地上のツインレイと楽園のツインレイの関係性について(創造主のお仕事、お終い♪)
今日、めっちゃ文章書いてて、肩が痛くなってきたんだが、まだ書かなきゃ・・・・・っていう何かに憑りつかれているなう。
前回は楽園のツインレイとセフィロトの樹の関係性。
今回は地上のツインレイとセフィロトの樹の関係性について。
たぶん、どこかに地上のツインレイは『男女』だと定義しているはずなんだが、もうどこに書いたのかすら記憶がない。
地上のツインレイの課題についてである。
地上のツインレイ男性は『一番自分が偉い傲慢者』となり、理解している思い込みと知識への依存が生じている。そのとき、その人が持っているものは『智恵』と本当になっているのだろうか——ということだ。
それは裏側に生じている調和が『調和になっているのか』が問題となってくる。知恵と調和は表裏一体である。知恵があるのであれば、調和することができる。しかし、調和することができないのであれば、それは真実なる知恵ではない。
根源には『自分が一番偉い』という視点があるためにある。エゴイズム的な視点を持っての智恵を『智恵』と呼ばない。
地上のツインレイ女性は『恥ずかしい自分に気づいていない人』となり、そこには肩書きと勝ち組に入りたいという意識が生じている。女性として男性にこび、自分が本当に欲しいものに気づかず『肩書き』や『勝ち』へのこだわりを捨てきれることが出来ていないとき、私たちは調和と見せかけた自分を劣位に落としての媚びているだけに過ぎない。
そのとき、私たちには知恵はなく、ただの考え無とも言えるのではないだろうか。
少々辛口だなと思うんだが、いつかの自分の話ですので、あんまりこのあたりに酌量を入れたとしても仕方なし。
地上のツインレイのラストは離別にある。
理由は「智恵」と「調和」が導き出されるからである。
一番偉いと思っていた地上のツインレイ男性は「傲慢な人だった」ことを理解することになる。それが調和を受け入れた故に生じる。このとき、地上のツインレイ男性は「うわー、おれってばめちゃくちゃ恥ずかしい人だった」ことを理解する。
とりま、穴があったら入りたいんじゃないかな。
恥ずかしい自分となっていたツインレイ女性は「自分が嘘で塗り固められていた」ことを理解する。それが智慧を受けいれたゆえに生じる。このときの地上のツインレイ女性は「うわー、本当はこんなにも醜い自分の感情があったんだ」ってことを理解する。
とりま、地上のツインレイ男性のことは憎いんじゃないかな。だってずっとマウントされ続けてきたし。
ゆえに、地上のツインレイは結ばれないという結論が導き出される。結ばれたいとは思わない、そこにはマウントの強者と弱者による関係性から生じた協力体制ゼロの関係性だから。
しかし、この離別にも意味があり、地上のツインレイ男性には『調和』が生まれ、傲慢が解除される。地上のツインレイ女性には『智恵』が生まれ、表面的な物事に左右されて本来のある自分の本心を大事にすることが出来るようになる。
地上のツインレイの関係性が終わった後、自分自身のセフィラを組み替えることになるが、その後、相手からもらった最終的な結論的なセフィラを自力で構築していくことになる。
つまり、地上のツインレイの期間が終えて、サイレントでもなく、『完全なる離別』を迎えた後には、地上のツインレイ男性から得られた『智恵』から導き出されていく『理解力』『知識力』を備えていかなければならない。この期間は、私は相変わらずめっちゃ勉強していたのと、最終的に楽園のツインレイの相手がどのような相手なのかも夢見や直感で理解していた理由はダアトに直結していたからだと思われる。
だからこれは『男女のツインレイ』なのである。
理解と知識が成立するとき、最終的に『誇り』に到達する。いわば、今まで頑張ってきた自分が誇りになる瞬間があるわけだ。そのときに『楽園のツインレイ』に到達し、真逆へとコースを切り替えて、足りていない部分を細くしていくわけなんだが、そのとき『母性』と『父性』というテーマに触れていくことになる。
最後の最後には『創造』へと到達する。
地上のツインレイの段階では『間違えている男女』として出会っているのだが、楽園のツインレイの段階では『正しいセフィラの理解をした男女』として出会っている。このとき、男女は地上のときとは反転している。
そして、楽園のツインレイの男女は『母性』と『父性』という視点に繰り上がっていくとき、楽園のツインレイへとなっていく。
つまり、楽園のツインレイは当初の出会いでは『現在のライン』により出会っている為、当初は地上のツインレイとの関係性を模していくわけなんだが、そのなかでの問題として『父と母』という概念による過去の問題が浮き彫りになっていく。
浮き彫りとなった母性と父性の概念を組み替えてようやく、ツインレイたちは過去の概念を終わらせる。(横のラインが終わる)
その後、過去の概念が終わると、現在のラインへと戻るために、地上のツインレイの関係性へと落ち着く。とはいえ共、過去に楽園のツインレイだった経験はなかったことにはならない。ツインレイの再会はツインフレームの恋愛により決まっている仕組みの記事がなんかいいことを書いてくれていそうな予感がする。ツインフレーム=地上のツインレイね。
楽園から地上のツインレイの関係性へと戻ってようやく『再会』である。
このとき、楽園のツインレイ時に母性と父性の革命を行ったがゆえに、私たちは『誇りがある』『ありのままの自分』として出会えるようになる。
楽園のツインレイの出会いの段階では、その誇りには過去の後ろ暗さを抱え、ありのままの自分にも過去の後ろ暗さが存在していると言える。
表向きではツインレイ男性は過去を糧にしては『誇り』へと切り替えていき、ツインレイ女性は過去を浄化していく必要性がある。(私は誇りもあるし、浄化もしてるから裏ではちゃんとそこに「ある」と思われる。)
父と母であるとき「誰の?」ってなるから、ツインレイはいっしょにいることはできないと思われる。
ツインレイのふたりは男女である。母と父ではない。それは『未来』である。
つまり、地上のツインレイである現在へと切り替えることが出来たとき、楽園のツインレイである父と母のラインは過去ではなく、未来を構成するようになる。
父と母になっていくことは『未来』を意味していくことができる時。つまり、自分は父ではないし、母ではないのである。
子を思う心は親にしかありません。
私はずっと母でした。私は子をずっと愛していました。
それは母でした。子供のいない母でした。
このとき、私は未来に母になる世界線を引き、自分が今まで地上のツインレイという女性だったことを過去としている。
私は『女性』であり『母』であるのだが、過去は『女性』だったし、未来は『母』だった。
今の私は「私を創造し続けている」のであり、中心のマルクトとなっている。このとき、私は『創造主』となっている。
それは子供の私であり、創造主の私である。子供は成長し続けていく。だから創造なのである。
破壊のない創造であり、繫栄である。
なぜ書いているのか。
私は創造しているからだと思う。世界線を引いているから、私は書かなければならない。
過去があって今がある。過去と今があって未来を創造する。
今の私の未来は、こんな感じ。私が創造主。私が『未来の私』であり、マルクトである。
常に書き手であった私こそが創造主である。だから世明けのツインレイは予言の書みたいになっている。
それは私が創造主だからである。それは『未来の私』である。それは『世界という私』である。『すべて』である。
でももう完成したから、同化する。
今までありがとうございました。