サイレント期間に本当はやりたくなかったことが無条件の愛に到達する条件だった(無条件の愛にも見返りはある)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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人からの相談されること。人からアドバイスをもらうこと。人に手伝われること。

本当はめんどくさかった(lll-ω-)

言えなかったんだけど、本当はうざかった。

 

サイレント期間って自分と向き合う期間だと思うんだ。

自分と向き合っているときって人と向き合いたいとは思わない。

人から相談を受けたら、それなりの返事を書こうと思う。いつかの自分が投影されていたのかもしれない、返事に時間を食った。言っていいのか悪いのか、判断に迷うことが多かった。

人からアドバイスされたら受け取りたいと思った。善意で言っているんだろうと思うから。でもそれが押し売りだから、こちらもどう処理したらいいのかがわからないものもあったし、いっしょに転んであげることのほうが大事なのかなって思った。

手伝いたいって言われて正直なところ、足でまといだったけれど、やりたいならやればいいと思い、負担を背負った。

 

正直、めんどくさかった・・・・・・。

サイレント期間に自分と向き合う期間とされているが、他人がめっちゃ介入してきた。

全員「自分が、自分が」と主張してくる。

自分が困っている、自分は知っている、自分はできる。

いや、知らんがな(lll-ω-)これが私の本心である。

私はブロガーであって、幼稚園の先生ではない。

自分について向き合うために色々考えたり理論をたてている。それを自由に使っていいし、自分なりに試行錯誤してとりこんでくれていい。

私は常に提供している。ブログを通して私から生み出されているものを提供している。

できる限り、差し出せるものは出している。

それ以上に欲しているのが相談者たち。これだけじゃ足りない、もっと欲しいもっと欲しいと言っている。与えられたものだけでは満足ができない。(相談者を募集していないときから、ずっと。共依存者)

私よりも優位性を示したいアドバイザーたち。自分の意見があるならば、自分の領域で示せばいい。私を介入させる必要性はないし、他人を克する必要性はないはずだ。(自己愛者)

自分も凄い人だと認められたい手伝う人たち。自分が凄いと言うのであれば、私を手伝う必要性は無いはず。(救世主症候群)

 

これらの人に奪われたものは『時間』なんだよね。自分と向き合う貴重な時間。

時間って有限でしょ。私には無限の時間があるわけではないんだよね。

それで帰ってくるものは感謝だよ。いつも思ってた、気持ちで腹は満たされない。

でも放っておくことが出来なかった。それが私の悪いとこだったのかもしれない。

見て見ぬふりが出来ない。

困ってたら力になってあげたいと思うし、

善意は受け取ってあげたいって思うし、

手伝いたいって思う気持ちも受け取ってあげたいのね。

どうしてやるべきかを考えていた。

でもね、それして自分が何か満たされたんかって言うと、ずっと時間をロスしている気分もあったんだよね。

理由は彼らを求めてなかったからだと思う。

 

私を救世主にしてくれる信者はいらなかった。

私にアドバイスをする救世主もいらなかった。

私を手伝う側近もいらなかった。

いらなかった、ごめん。はっきり言ってウザかった。

でもなんか、みんな、一生懸命頑張ってたから、それに向き合ってた私がいる。

 

私は私を信じてたのね。だから信者はいらなかったの。

私は私を導けるのね。だから救世主もいらない。

私は私をサポートできるのね。だからお手伝いもいらない。

いらないけど、私の発展が使えそうならば使ってくれていいからって思ってブログにしてた。

それ以上でもないし、それ以下でもない。

なんていうのかな。ずっとウザったい感覚があったんだけど、なんか皆頑張って『自分の存在のために』頑張ってたのわかってたから、邪険には出来なかったんだよね。

頑張って徳を積もうとしている姿が、もし間違ってても「はい、頑張ってね」って言ってあげたいんだよね_(:o」∠)_認めてあげたいんだよ。

自分でなんとか出来ないなら手伝ってあげたいわけで。

頑張ってるのはわかるんだよ。それはやっぱり認めてあげたかった。

 

私も葛藤の中にいたけど、私が「私」というひとりの人間であり、ひとつの人生を歩んでいる存在なんだってことを認めて貰えることが本当に少なかった。

私も迷っている人だったし、私もどうしたらいいかわからなくて困ってたんだよ。

だから考えねばならなかった。

 

この『救世主症候群』っていう領域で、私はずっと私を助けようとしていたんだが、他人が私のなにかにすり変わり、自分を満たそうとしていたのも、またひとつの事実として認めている。

だから、なんか、二倍やってた_(:o」∠)_

 

無条件の愛だったのかなって思っている。

私が困っているときに「困ってるから助けてください」って言われる感じ。(自分は後回し)

私が自分のことをやろうとしているときに自分のやり方を押し付けられる感じ。

私がやりたいことを手伝うと言って邪魔される感じ。

どれも、私にとっては迷惑行為でした。でも、みんなのこと、受け入れていました。

迷惑かけられてても、文句も言わずにやっていたのは、無条件の愛だと思います( ´ᾥ` )

 

子供を育てるとは、このようなことなのだと思います。

まんま子供がやることです。

ママより先に自分( '֊’ )、自分が一番偉い( '֊’ )、手伝いという名の邪魔( '֊’ )デキルヨ

子供は迷惑しかかけませんが、その迷惑を喜んで受け取らなければなりません。

無条件の愛だと思います。

時間がすごい奪われました。まさに子育て。自分のことと他人のこと。常に二倍。

子育ては誰にも感謝されませんし、認めても貰えません。お金も発生しません。過酷な労働です。

でも、何も無いわけでもありません。

人は成長します。それがよろこびです。

無条件の愛の見返りは成長した姿を見ることです。

それが喜びです。

見返り、ちゃんとあります。

私は自分の子供を、私の救世主にしないし、信者にもしない。そして私の側近にもしない。

無条件の愛で向き合いたいと思うけれど、でも、自分の人生を生きて欲しいと思う。

母は捨てられたいのです。

私がいらない存在になっていくことを私は望んでいる。

最後の無条件の愛は『捨てられたこと』を喜びに感じることなんだろう。

どんなに愛した経験があっても、その経験に執着をしてはならない。

 

無条件の愛を実行することができたとき、必ず我が子は育つ。そこに愛があるからである。

世界の誰に褒められることがなくとも、子が育てば名誉はここにある。

母に価値はありません。

無条件の愛は無価値なる母を愛しています。