憎しみの下にある愛こそが、多くの人の願う念願だったんだね。

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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今、自分のなかで取り組んでいることが、常に自己統合。というか、トラウマ解消ともいうし、人格統合とも言う。

名称は何でも良くて。ただ、自分のなかで自分の人生を邪魔してしまっている人格や過去の記憶などを解消し続けている。

並行して、それに付随し、くっつきムシのようにくっついた人たちもいる。

私にトラウマがある。そのトラウマに癒着する人たちもいる。その人たちについても、並行的にいっしょにトラウマ解消をしていっている。

朝起きてから寝るまで。ずっとトラウマ解消か。または散歩か、飯か風呂か——というような生活。

 

カルマと呼ばれるものがあるし、悪縁と呼ばれているものでもある。

私たちはどこかで憎しみ合っているけれど、どうして憎しみが存在しているのか。

それは愛が生じ、その愛が裏切られ、愛した分だけ憎しみが生まれていたのだと知る。

つまり、私たちは愛した分だけ憎しみ合っているとも言える。

私の場合、彼のことを憎んだことはないんだけれど、ずっと後悔している。約束を守れなかった後悔。それは前世に関係しているものらしい。

たしかにそうだ。私と彼は何度も死別を繰り返している。死別をするたびに片方は後悔をしている。たいていが戦死、そんで病死。

先に死ぬという後悔。残される側の強い悲しみ。これが私たちの前世から今生に持ち込んだカルマ。

 

私たちは、こんな風にカルマを背負っている。

それは愛した分だけ、大きなカルマを背負う。愛した量が大きければ大きいほど、カルマとなって強い縁を結ぶ。

ふたたび出会いたい。そんな魂の願いが大きなネガティブな感情を生み出す。

私たちが今生で出会うとき、先ずは最初にネガティブな関係性を築かなければならない。それは今生の縁がネガティブな縁として結びついてしまうからだ。

本当は愛していた。本当は大好きだった。

そう。「本当は」。

本当はっていう部分を貫くことができない理由は、前世のカルマから現世にカルマを持ち込む為に必要な手段だった。

私たちはそうやって再び出会おうと約束をしているようなものなのに、どうしても、カルマのまま進んでしまう。

カルマのまま、結ばれてしまえば。私たちは憎しみ合い、悔やみ合い、そして、後悔をするしかない。

私たちは何度も何度も同じことを繰り返してきた。やってやられての世界で、私たちは、愛よりもネガティブな意識を優先にしてしまう。私たちはカルマを超えることができない。

カルマを超えなければ、私たちが本当にどうしたかったのかを思い出すことができない。

ずっと憎しみ合うなか、愛しているって叫んでる。それなのにうまく愛せない。

カルマが動いて、どうしても縛られてしまう感情がある。

私たちはその感情を乗り越えたいのに、どうしたらいいのかがわからない。少なからず、私はどうしたらいいのかがわからなかった。

 

カルマを超えるために、私たちは相手と自分の『本質的な部分での縁』や『介入されているカルマ』を確認する必要性がある。そして、カルマを乗り越えなければならない。

カルマを乗り越えるとは、カルマに付随するエゴを捨てることである。

ネガティブな感情には『怒り』『悲しみ』『憎しみ』など、そんな人からは嫌われるような感情が多い。多くが自分を守るために生まれるエゴという意識である。

このエゴを捨てよと言われても、どこがどうしたらエゴを捨てられるのかがわからない。それが普通なのかなと思う。

私はエゴを捨てたのではなく、エゴを乗り越えた人である。エゴを乗り越えるとは、自分の怒りや憎しみ、悲しみを超越した先にある視点を獲得していくことだった。

それは蜘蛛の恩返しに繋がった。どんなに憎い人であったとしても、どんなに嫌いな人であったとしても、それでもいいところはあった。それには報いるべきだと思った。そうしたら、私のなかにあったエゴはすべて崩壊した。

すべてが浄化され、私はその人と私の縁としての繋がりを浄化した。相手の為に何かをするとき、必ずエゴが邪魔をする。それが憎い人であればあるだけ、私たちは相手の為に何かをしたいとは思わない。

親を殺した憎き人を助けてやりたいとは思わない、その心に寄り添いたいとは思わない。

だけれど、それをひとつ超越した感覚があった。

私は、私を助けてくれた極悪人を助けないのか?

私はお釈迦さまではない。でも、チャネリングが出来る。

引用:人格統合の本と、蜘蛛の私を助けてもらった恩義を返し始めています。

なんだかとても終わった後には清々しい気分になった。

私は私を傷つける人にも、心を寄り添いたいと考えていた。私と同じ傷がある。それはわかっていたけれど、だからこそ、痛めつけ合うのではなく、その傷をいっしょに痛むからこそ癒したいと思った。

私は傷ついて痛いと思っている分だけ、相手も痛がっている。

だけれど、やっぱり私は人だから。私は自分のささくれが一番に痛かった。でも、相手も痛がっていることに気づいたならば、私はそれを見捨てることは出来なかったんだと思う・・・・・・。

 

私はあるとき、光としてこの世にやってきたイメージを視た。

「みんなの念願をかなえにきた」

そう言って、希望に満ちてこの世に降りてきた。

色々な幻想を抱えていたけれど、私は私のなかに見た幻想は、それぞれ『本当のこと』だったんだなって今ならば思える。

ぜんぶ、妄想なんだよね。ぜんぶ、妄想なのよ。

でも、私は確かに「みんなの念願をかなえにきた」んだなって今わかる。

妄想と創造は違う。創造は現実的で、妄想は頭のなかでしか展開していない。

今、私は確かに、みんなの念願を叶えようと思っている。これは妄想じゃない。これは創造だと思う。

妄想は『願い』だ。私は願ったんだ。みんなの念願をかなえたいと、願ったんだと思う。

カルマを解消し、憎しみや悲しみを愛というふたりの関係性の起源に還したい。

だって、その感情の量は、その大きな離別の関係性は、確かに根本にあったものは愛で。愛し合っていたからこそ、憎しみ合い、悲しみ合い、そして再び出会おうとしている。

それは客観的に見ても、悲しいなと思う。

せっかく出会えたのに、悲しい。そこに、ただ「再び会いたい」と思うほどの強い心から生まれた感情が、ひっくり返って「再び出会えても結ばれない」というカタチに着地しているのは、それは悲しいなと思う。

 

これは私が視ている世界。

 

妄想を受け入れた今。なんでもござれと思っている。

ツインレイでも、ツインソウルでも。妄想でも、エロトマニアでも。

結ばれることができない相手でも、相手が芸能人でもいいし、なんでもいい。

確かに「出会いたいと思っている人がいる」ことは事実。それだけが事実なんだと思う。だから、あなたはカルマを背負っている。

出会いたい人が誰なのかがわからないっていうのも、それはそれで『あり』なんだと思います。

そのカルマを愛に切り替えていくときが来た。

出会いたい人と出会い、出会いたい人と愛を再び育みなおす機会が与えられている。それがカルマだと思う。

でも、人は『人』だから。やっぱりカルマに付随するようなエゴが存在している。そのエゴを乗り越えてもいいけれど、根っこにあるのは基本的にはトラウマだから。

エゴはトラウマによって生じている。だから乗り越えてもエゴは解消されるように道が示されるけれど、トラウマを解除したらエゴは消失するものだから。

全体的に、全部、前世込みでのトラウマ除去が『出会いたい人と結ばれること』に繋がっていくってことだな。