真我までの到達の経緯と『めっちゃぼんやりの統合した無私人格になるか』『めっちゃ現実を忙しくして現実人格に交代するのか』
数日前から、とても静寂な世界にいる。
それでも、パソコンの前に座ると騒がしい声が込み上げて、駆り立てるかのように理論が立った。
今はもうそれもない。
今は遠くで鈴虫の音色が聞こえる。電車が走っている音が聞こえる。
頭のなかで考え続けることもなくなって、心のなかで誰かが走り回っていることもない。
まだ少し、いくつかの解離の感情はあると思うんだけれど、大きな分離の人格たちは統合され、私のなかが静寂と化した。
身体が軽い。心も穏やか。ずっと緊張していたものが解れ、身体が震えている。
思い出されるいくつかの記憶、解離する前の記憶。まだ幼い幼稚園に入る前の記憶。お風呂でぼーっとしているときの記憶。
本来、人はずっと頭のなかで考え事をしているだなんてことはないらしい。
考えようとして人はようやく考えるらしく、考えようとしなければ人は考えないのだと言う。
病院の先生に、そんな風に教えてもらった。30歳過ぎてからかな、それを知ったのは。
へぇ・・・・・、そうなんだ。どんな世界なんだろう。
考えてみたけれど、よくわからなかった。
今はわかる。なるほど、人はこんなにも静寂な世界で生きているのか、と。
こんなにも安心感のある世界で生きているのか。今までの世界が戦場のように感じられる。
考えなければ死ぬ、そんな世界。
私の元々の人格は「何も考えていない」だった。それこそ、無私にある。
だけれど、それではいけないから考えるようになった。考える人格が育ち、私は人として本来の自分とは真逆の人間となった。
そこには彼がいた。私が真逆の人格となったからこそ、彼と出会った。
でも、本当は何も考えない。ぼんやりした人が私だった。
だから本当の私に戻ると、やっぱりぼんやりしている。ぼーっとしている。
ぼんやりしているものだから、はっきりとは書けないんだけれど、とりあえず、わかる限りは書いておこうかな。
たぶん——としか、今は言えないんだけれど。
人は、元々の人格を否定することによって、真逆の人格を構成することができる。
真逆の人格は、本来の人格を反転させるが為に、本来の人格を『死』とさせる必要性がある。
人のなかにある最大の二極性とは『生と死』にあるから、本来の人格を死を迎えさせれば、新しい人格を生とさせることができる。
本来の人格と、新しい人格を、生と死という二極性により構築するとき、本来の人格により構築された人格——。すなわち、本来の人格とは『本来の人格ではない』ことを理解される。
いわば、本来の人格とは「親に与えられた人格」のようなもの。
私の場合、優しい子——とは、親に与えられた人格であり、本来の人格とは言い難い。優しい子に親が育て上げたに過ぎない。
優しい子に育った私は、その人格を『死』として迎えさせるとき、人格の死は生を呼び起こすことになるが、時に失敗すれば、これは本当に自死に至る。
本来の人格が死を迎えるまでの経緯は、常に殺され続ける。最後は存在が消失することになる。
常に自分を自己否定をしていく経緯にあるが、この経緯に意志がないと、ただの自己卑下人格になる。自己卑下も最高値に達すると自死に至るか、または人格が破壊されて依存性人格障害者になる。アイデンティティの喪失になるから、本当に人格障害者になる。
本来の自分が死を迎えるとき、同時に創造性が発揮される。
死は生を呼ぶ。本来の人格は『意志を持って死ぬ』ことになる。つまり意志を引き継ぐものが創造される。それが創造の子。
創造の子は『意志』を持っているがゆえに人格を形成し、意志を全うするために生まれる。
これが内在性分離人格の本質にある。
本来の自分がすべて死を迎えると、最後に『無私』のみの人格が発生する。これが真実の私という人格である。
創造の子は『自己否定』と『エゴを破壊する意志』により構成される。
もともとエゴを否定する段階では『優しい子(犠牲の子)』と『創造の子』を必要とする。ふたつの人格を必要とする。自己犠牲すればするだけ創造の子が生まれる。
エゴの全否定が成立する段階で自分のすべてを自己犠牲させることで『無私の子』が発生する。この段階で、優しい子(犠牲の子)は死に『創造の子』と『無私の子』によるふたつの人格が成立する。
無私の段階で、エゴは消失され『真我』に到達する。この段階で『無』と『有』という人格構成になる。
真我に到達することで解脱——とする。
悲しい出来事が多かったから、慈悲の心が生まれて優しい人になった。
悲しい出来事を受け取りつづけたら、慈愛の心が生まれて、創造の子が出来上がった。意志を持って人を愛した。
意志を持って人を愛し続けたら、心が生まれた。これがまた『自分を思いやりましょう』っていう心。
この道の真逆の人生がある。それは『憎しみの人生』です。
愛と憎しみは表裏一体とされている。
愛することと、憎むこと。一歩間違えれば、愛は憎しみとなる。
誰も憎みたくなかった、でも憎みたいほどの憎悪があった。
誰かを憎み、人のせいにすることは簡単なことでした。でも、それをしたくなかった。
だからこういう人生になったんだと思います。
憎しみとは人からの影響で生まれるもの。つまり、誰かを恨むという時点で『人からの影響により自己を形成する』ってことになる。
だから、自分になる道には『理性』がつきもので、愛とは理性の先にしかない。
つまり人の為に——と行動し、考えることこそが知性を底上げさせるコツだったりする。
前に、無償の愛とは、どこの誰だか知らん人の為に死んでも文句ひとつ言わないことだ——と書いたことがある。
本質的に人間は、愛など持ち合わせてなどいない。理由は肉体があるから。
肉体があれば、私たちは必ず自分を守るという意識が生まれる。肉体があるからこそ、私たちは人を愛せない。だから、私たちは肉体が持つ自己防衛本能を解離させるほどの理性を求められる。その先にようやく『自分を守らない』すなわち、愛が存在している。
究極の理性が存在し、ようやく人は愛を持っている。だって人は死にたくないから。愛は死。理性によって死を迎合することにより、私たちは愛を完成させる。これが『離人』だし『解離』なんだよね。
つまり知性や理性が高いというのは愛情深いってことなんだ。愛情深い人は知性が必ず高い。これをEQと言うのかもしれないんだけれど、必然的にIQも高いんだよ。同時に、ものすごい人間的にバカっていう矛盾をはらんでいる人たち。
エゴを捨てようっていうけれど、とりま、エゴを捨てるについてだが。。
たぶん、エゴを捨てきれた人、ほとんどいないんじゃないかな。
最終的に、ツインレイの再会前に「自分のことで忙しくする」みたいなターンの人が多いと思うんだ。
「めっちゃぼんやりする」人と「めっちゃ自分のことで忙しくする」人に分類されると思う。
めっちゃぼんやりする人は、無私の到達だと思う。
精神と現実の乖離を統合する段階で『ぼんやり』するのが、内在性分離の人格が統合されたってこと。
『忙しくする』ことによって、現実感を持たせることも出来るよね?
つまり、現実と精神の解離のうち、精神の問題をすべて解決しちゃうとぼんやりしている自分によって現実へ戻ってくる。無私だからもはやぼんやり以外にはなにもない。
だけれど『忙しくすること』で、精神から現実感への人格へ切り替えることも出来る。だから『現実で忙しくした後にツインレイと再会すること』も出来る。でも、精神領域のことが終わってないから、忙しくすることで意識を現実に引き戻しているっていうメカニズムにしている。
原理かな。だから、めっちゃ忙しい現実をつくることで現実人格に戻ることも出来るし、精神領域の分離人格をすべて統合しきることで現実の統合人格のみとすることもできる。
だけれど、めちゃ忙しい現実をつくって現実人格に戻る場合、内在性分離人格は残ったままだから『解離』による問題は残ってしまう。つまり、自分のなかにある精神的問題を未だに残したままツインレイの再会をするって話になってくる。
自己統合が終わっていない段階での再会ってことになる。