報告|ツインレイにすら愛されていないという現実を受け入れて
こちらの記事書いて。
それから、ツインレイにすら愛されることがなかった——という現実が私を大人にする。
ツインレイ。彼にすら愛されていたわけではないのだと理解した。
それが事実だった。そこに気づかないようにしていた。
受け入れ難がった事実は『愛されていない』という事実である。
愛されていない事実を受け取れず、その事実から目を背けてきた。
今、ようやく、その事実を受け取って私は大人になる。
私は、この生涯をかけて、愛されたいと思った人にはひとつも愛されることなく大人になる、自立する。
私の自立とは、愛の循環が自己のなかでのみ成立することである。他者を介入させない独立性にある。
他者への期待を全て断ち切り、他者に愛されることを望まない世界である。
それは、親に愛されていない事実、ツインレイに愛されていない事実を受け入れることである。
裏側に存在する事実に目を瞑っていた理由は、愛されていないことを受け入れられなかったから。
私は思いこみだけで生きてきた。愛されていることを信じていただけである。
しかし、それは幻想である、思い込みである。
幻想は私の親代わりとなった。
私は優しい幻想に抱かれて育った人である。人の善性を信じているからこそ、出来あがった幻想である。
幻想はさびしさである。私のさびしさに抱かれて私は育った、そして大人になった。
おかあさんとは幻想である、さびしさである。
母とは幻想のなかに存在し、私たちの善性により存在する。そして、私たちの悪性により復讐の対象者ともなりえる。
性善説と性悪説である。
親とは幻想でしかない。私たちが愛されることを望むとき、私たちは幻想のなかにいる。
そして幻想に育てられている。幻想は母である。それは幻である。
私たちの中にある母性は、幻想となって現れる。私の母性は善性にあり、愛してくれる存在である。
また、ツインレイに投影した父性もまた善性にあり、愛してくれる存在である。
私はそんな幻想に愛されて育った人である。
私は自分が本当に何者なのかがわからない。
幻想に愛されて育った自分が、なんなのかがさっぱりわからないんだが、私は親を親としては現実的に捉えることも出来ず、ツインレイの彼を恋人としても現実的には捉えることが出来ず。
私が彼らを愛することが出来たのは「愛されている」と思い込む信じる力にあったからだ。
彼らの善性を信じていたからである。
だけれど、愛してくれていたのは私が産みだした幻想だった。
彼らが愛していたのは私じゃない。
そして大人になるとは、他人の共感を受け取らずとも生きていけることである。
ひとりで自立し、自分で自分の感情をすべて背負うことが出来るようになることである。
ツインレイに愛されることはないし、共感されることも、自分の心を受け取ってもらえることもない。同じように感じることもない。
だけれど、私たちは人に好きになってもらえることはできる。そして、人を好きになることも出来る。
今度は好きな人と一緒にいたらいいと思う。
なんかこう、愛されている実感がひとつも感じられなかったんだなって思った。
愛されていないのに愛されているって思わないと生きていけない人生だったんだな、と。
そして、その幻想の根源に『愛されたい欲求』が強く眠り、自分の気持ちをひとりだけでは背負うことができない子供時代の私がいた。
よく「こういう人は愛されて育ってきたんだろうな」って思われてきたんだが、『私の中にいる私』が私を愛してきた。
なんだこのさびしすぎる幻想は。私が私を愛している姿を誰かに投影してきたんだな。
自分の気持ちをひとりで抱え、親にもないがしろにされてきた私は解離していた。
その分離した自分を受け止めたら、愛されていると思い込んでいた世界が融けて消えた。
私は愛されていなかった。
そうやって私は私を愛してきた。他者に愛されることはなかったけれど、私が私を愛していた。
なんだこれ? なんだこれ?
なんだこれ・・・・・・?
私は自己愛が解離していたんだな。だから私は他者愛者になれた。
自己愛が投影として使われ、愛情を受け取っている人になれた。自己愛を解離させ続け、最後の最後には他者愛へとたどり着くとき、私はひとつの到達点へと達した。
愛することだけが全力でツインレイへ実行することができたのも、私のなかにある自己愛が解離していたからなんだな。
私は自分を愛する力を他人への幻想へと力を変えて、自分が「どうあるべきか」へと注力させたんだな。それが他者愛。
誰かを愛したかった。そのためには自己愛が邪魔だった。だから解離させた。
でも、自己愛が人格統合された。
私のなかには自己愛と他者愛が両立していると思う。
おかあさんとは自己愛である。
なんだこれ?????