トリプルレイ理論と、概念に意味はないこと。
先日、はーちゃんと会ったとき、ご主人もくるかどうするか——みたいな話が合った。
会わないんじゃないかな? と思ったら、やっぱり会えなかったんだが。
とりあえず「会えた場合のシチュエーションについて」を考えてみた。
もともとはーちゃんとはーちゃんのご主人はツインレイってことで結び付けている。そこに新しく、はーちゃんと私、はーちゃんのご主人と私という緑の線を追加する。
そのための構造はこのようになる。
私はこれに気づいたとき、片腹痛くなった。道端で笑ったよね。
はーちゃんと、はーちゃんのご主人の間に、なとり、なとりがいる! 未知との遭遇じゃあるまいし!
もし会うようなことがあればカオスである。意味が分からない、どうしてふたりの間になとりがいるのか。
で、これが「間違いのトリプルレイ理論」に繋がっている。
マジうける、はーちゃんとはーちゃんのご主人の間に私がいる、想像しただけで笑ってしまう。
3という数字についてなんだが、実はこれだと3が成立していない。
この概念的な数字は「人数」を意味しているわけではない。そこにある気質が3種類あるかどうか——である。
ツインレイって男女における恋愛の理論でもあるから「男」と「女」という2種においての分類しか出来ない。
つまり、ツインレイに登場する存在は「男」と「女」という2という概念により生じる話である。ツインレイとは「男女の概念」においての話であって「ふたりの概念」の話ではない。人数がふたりっていうわけではなくて、概念が2種ある関係性ってこと。
「男の概念」と「女の概念」により、2という数字が「ツイン」。これで、ツインレイ。2種の光線。
3っていう数字は「男の概念」「女の概念」「その他の概念」により生じてくる。いわば、ツインレイの間に「もう一種」が関わってくるとき、これがトリプルレイ。
3の数字は元々「父の概念」「母の概念」「子の概念」の三つ巴によって家庭が安定する——という思想を基にする。つまり、子が何人いても安定する。
ここから2の数字による概念は「男が複数人」「女が一人」であったとしても、それは「2」である。
つまり、トリプルレイと呼ばれている人たちが「男が二人」「女が一人」で三人を構成していたとしても、これは「トリプルレイではない」という話ができる。
トリプルレイは人数を指しているわけではない、三種類を指している。
では、この3種類ってなんだろう?
- 「父の概念」「母の概念」「子の概念」
- 「女の概念」「男の概念」「神の概念」
こんな感じ。
トリプルレイ、それは、まだ出会わぬ我が子がそこにいること。まだ出会わぬ我が子がそこにいて、その子が「三人目」として数えられたとき、私たちはトリプルレイになる。3種類が存在するから。
はーちゃんも「三人目」を知っている。
ちなみに私も「三人目」を知っている。
私の元に生まれてくる子を私は知っている。何度か夢にもでてきたし、ツインレイの彼との縁結びをしようとしてくれたのも、あの子である。
これがトリプルレイだと思う。そして、その子はふたりを夫婦にして自分が生まれてくるように仕向ける。理由は「三つを結び付けようとするから」である。
家族になろうとしている、これがトリプルレイ。
四人がもし揃うことがあれば、安定のカオス感が醸し出される。ちなみにこれで「ツインレイ」である。
どうして? 四人ならば、クアドラプルレイとかになるんじゃないのとか思うかもしれない。
上記の通り、これでも「男」と「女」で構成されているから、これは「ツインレイ」なのである。
面白いよね、人数で数えているわけじゃない、概念で数えている。
つまり、ツインレイが二組あったとしても、私たちは「ツインレイ」なのである。どんなにカップルの数が増えようが「男女の概念」というものがブレるわけじゃない。それがいくつあろうが「男女は男女」ってこと。
なんですごく当たり前のことを書いているのか? これ、すごく重要な話なんだよな。
ペアはペアであって、それが「誰なのか」がとてつもなく重要なのである。
概念上であれば、誰だっていいんだよ。それが異性であれば結局誰でもいい。
概念のなかで、あたいは「はーちゃんのご主人」と「彼くん」の違いが存在しない。これが男性視点かも。
だけど、私は多くの異性のなかで彼くんがいいと思った。これが「好き」って意味、人が人としての権利。
概念からじゃわからないことっていっぱいある。それが「個性」なんだよね。
ツインレイの話のなかで、私はとてつもなく重要だなって思ったのは、ツインレイが誰でもいいという大前提にある。その大前提のなかで「どうしてその相手をあなたが選んだのか」ってところ。
理由があるんだよ、その理由を考えてみてほしいと思ったんだよな。
次に、その理由は「誰にでも適応されている」ってことにも気づいてしまった私からすれば、そもそも「意味がないことこそ至極」という視点にいたった。
根っこまで掘り下げてみると「何もなかった」のである。
好きに意味なんてない。この意味がないものを愛しぬいた人こそ、ツインレイなんだから「自分が意味つけしてしまった部分」をあぶりだしていかなければならない。
理由がいらないのに、理由を見つけて安心している私たちがいる。
ツインレイという理由があるから、安心している。
理由がないと不安なんだ、人は。トリプルレイも同じ。そうやって定義されると安心が出来る。何かが許される。
だからこそすべてをぶち壊す必要性がある。
私たちは「枠組みに入らない」ことに不安を感じ、恐れている。それは「自分で自分を定義する」ことで安心をも覚える。
だけど、それさえも意味がない。この世には概念を生み出し、定義していくことができるけれど、これもある種ひとつのまやかしにすぎない。
その言葉をつかって自分を象るとき、絶対的に私たちは何かの安堵感を感じている。
安心は必ず私たちを安全地帯にかくまってくれるけれども、ツインレイがいいたいことはたったひとつだけ。
「好きに意味なんてないよ」
「いっしょにいるために理由はいらないよ」
「これが恋だよ」
ツインレイ男性にとって「誰かたった一人を好きになること」って、すごく難しいことなのかもしれないって思った。
フゥン・・・・、なるほどね。
「ツインレイ」っていう用語は男性の為に存在している。男性の為に生み出されたひとつの言い訳。「運命」って言葉も男性の為に存在している。
この世の多くの概念は男性の為に存在している。多くの意味付けは男性の為にある。
で、このツインレイの出会いも、男性陣のために存在している。
少なからず女性陣を軸にしているわけじゃないっぽいな。
男性陣が「愛されるように」とツインレイを構成している。メインは女性じゃない、男性である。
たぶん、彼らは「人を好きになったこと、恋をしたこと」がないんじゃないかなと思った。どうなんだろう。