自分のことを受け入れると「真」と「手放し」に分類されるよ。
ツインレイのことが過去形となって「どうでもよくなった」わけである。
どうでもよくないんだよ。
どうでもよくないから、記事を書き続けてきた。
どうでもよくないから、考え続けてきた。
「どうでもよくない!」と思っている本音は、私を私と向き合わせる力になった。
実際のところ、ツインレイのことはどうでもよかった。でも、私は私のことがどうでもよくなかった。
私が苦しんでいる、このことについて「どうでもいい」だなんて思えなかった。
ツインレイのことじゃない、私は私のことで悩み続け考え続けてきた。
ツインレイのことを手放すんじゃない、私は私のことを受け入れることが必要だった。苦しんでいる私を。
私はツインレイにより派生した「自分」を受け入れることが、ツインレイの手放しに繋がっていた。
私はツインレイの手放しではなく、私を受け入れただけ。
そうしたら、ツインレイのことはどうでもよくなってしまった。
私たちは、ツインレイによって「自分に戻る」ことになるけれど、ツインレイの手放しは最終的にはそうなったけれど、本質的な部分でやっていることは「自分を受け入れること」だった。
自分自身を受け入れたら、どんどんとツインレイは手放されていった。
過去の私を受け入れたら、過去のツインレイが手放された。
今の私を受け入れたら、今のツインレイが手放された。
未来の私を受け入れたら、未来のツインレイが手放された。
ぜんぶ私のことだった。ただ、結果的に「手放し」と呼ばれているけれど、本質的には「自分を受け入れること」が大事みたい。
自分がどのような過去を背負っているのか。
自分が今どのよな立場になっているのか。
自分がこのまま進めば、どのような未来なのか。
そのすべてを受け入れたとき、私たちは「私たち自身」に立ち戻ることになる。
すべてがフラットになって、すべてがまっさらな白地図の上に私たちは立つ。
ただ受け入れるだけ。色々な自分を。受け入れたら受け入れた分だけ、余分なものが手放されていく。
私は思考し続けていたけど、それが私だったし、それを手放すつもりもないし、そんな自分を受け入れている。
だから「余分なものだけ」手放され、「真の自分だけ」が残るようになる。
最終的には「真」だけが残る。いらないものは手放される。それは自分を受け入れる作業のなかで分別されていく。
すべてにおいて受け入れたらいい。環境も、自分のことも。すべてにおいて「自分を形成しているもの」である。
最後には「真」だけが残る。これが「私」である。
何もないなか、私だけが残っている。
自分を受け入れる経緯は、みんな違う。
だけど、受け入れた分だけ、手放しと真に分類されることは万人共通。
真として残った部分だけを持って生きていけるとき、私たちは魂の生き方を望む。
欲しいと思う自分の未来はやってこない。欲そのものだから。
だけど、欲しいと思っている自分を受け入れている人には、新しい未来がやってくる。欲があるから。
どうでもよくないのに、どうでもいいの箱に入れてしまった人たちは誰?
大事なものを手放してしまった人たちは誰?