ツインレイの『好き』がわからない理由。恋に気づくまで。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイっていうか、ギフテッドのことかもしれない。

ちょっとなるほどな~と思った件について。

好きがわからないっていう話です。

好きの気持ちを封印しているとかでもないのだろうと思いました。

ただ、気づかないのだと思いました。

 

人のなかに誰かの面影を見つけること。

それはその誰かを「好き」なのだと思います。

あー、この人、あの人によく似ているな。

そう思うとき、私たちはその人が好きなのだと思います。

ですが、「似ているな」と想うときの私たちは、好きという感情レベルの認識をしません。

その人のことをふと思い出してしまうとき、私たちは「好き」なのだと思います。

しんみりと自分のなかに浸透している誰かに気づくには、少々時間がかかるのかもしれません。

忘れられないとか。なぜか思い出してしまうとか。そういうことなのかもしれませんが、この好きはもっと違った形で、ほんのりとしています。

そんな強烈なものではありません。

ただ、人のなかに自分の想う人が映ることがあります。これを投影とも言うのかもしれません。

ホントは、全然そんなことはないのかもしれません。

ですが、私たちのなかで世界の中心の軸のような存在に誰かがなっているということ。

私たちのなかで「彼に似ている」と思う部分は、きっと、自分のなかにある軸が彼になってしまっているということ。

そこを指針に誰かを比較しては、彼を求めている私がいる。

誰かのなかには彼はどこにもいないのに、彼を探し求めている私がいる。

これを「好き」という言葉にするのが明らかなのだと思いました。

これは「好き」とは、少々違います。好きとか、何か、また別の何かだとは思います。

でも、一番に言葉として近しいものがあるとしたならば、それが「好き」なのだと思います。

自分の人付き合いの世界の中心点の比較にいる人が「好きな人」だと思いました。

元々、その世界の中心の比較にいる人は、親です。

しかし、その塗り替えを行う私たちは、本当の意味で恋を実らせることができる機会があるのだと思います。

親と結婚することは出来ません。初恋は必ず実らないものです。

しかし、親以外の異性とは結婚することは出来ます。これが二回目の恋は必ず実るものだということ。

つまりは、自分の世界の中心に誰かいることを『恋』と呼ぶのかもしれません。

 

この恋は、ほんのりとしたもので、私たちのなかに深く浸透しています。

ただ気づくだけでいいのですが、なかなか気づくことが出来ません。

私たちのなかにある指針を手に取るときの私たちは、既に大人になった証拠です。

あなたがもし、大人になったとき。そのときにようやく私に気づくという時限爆弾のようです。

私たちは、世界の中心を外したいと願ったのかもしれません。

だから「どうでもよくなる」を目指すのかなと思いました。

ですが、私たちの世界の中心をどうして外すことができるのでしょうか。

私の父にも似つかない彼を私は好きになりました。これが恋だったのだと思います。

そして、私の最後の結論は「彼がすべて」となりました。これは、彼以外のことはどうでもいいということです。

これが恋ではなくて何だと言うのでしょうか。

彼がすべてとなる私は、私の世界の革命が起こりました。

これをサイレントと呼ぶのであれば、私たちの恋による新しい世界のはじまりの序章に過ぎません。

 

どうでもよくないです。

どうでもよくないから、みんな悩んでる。

どうでもよくないから、みんな苦しんでいる。

そんな「どうでもよくないこと」を受け入れたらいいと思います。

きっと私のようにトチ狂ったようになるかもしれませんけれど、どうでもよくありません。

あなたが初めて親以外の誰かに恋をした。

親に似た誰かを好きになって代替品を求めたわけではありません。

初めて親以外の誰かを好きになったことを「どうでもいい」だなんて言葉にして切り捨てないでほしい。

私たちがもし、彼以外を選ぶのであれば、それは彼の代替品を求めているにすぎません。

それをどうしても私たちは受け取ることが出来ません。

妥協が出来ません。

だって、親を選ぶことは出来ないから妥協で選ぶことになる。

でも、彼とは結ばれることができる。なぜ、妥協せねばならないのか。

だから、サイレント中にどのような出会いがあったとしても、付き合うことが出来ません。

どんなに素晴らしい人がいたとしても、手を取ることが出来ません。

恋とは、そのようなものなのだと思います。

好きとは、そのようなものなのだと思います。

 

親によく似た誰かを好きになったわけではない。

自分が好きになった人を最初は自覚することは出来ません。

だって、こんな恋をした経験なんてお母さんとお父さん以外にありません。

そして、この恋は愛により生まれます。

最初は愛により、私たちは相手を両親のように求めてしまいますが、

しかし、愛ではなく、好きという感情がここに眠っていることに気づかなければなりません。

それが世界の中心には、いつだって「好き」という感情があるのだということです。

だから、私はツインレイは「私のすべて」だと結論を出していきます。

私の中心にはいつだって彼がいる。そして、その中心により世界が広がっている。

その世界に生きる私になるために、サイレント期間は大事な恩恵を与えてもらえる期間でした。

今までは父を中心により繰り広げれた世界を、彼に切り替えていくときでした。

 

そうやって私は、本当の意味で自由になっていきます。

この心に「本当に好きな人」が出来たからです。

今までは父に似た人を好きになりました。

恋が苦しいものであるとき、私たちのなかに「他の誰か」がいるからです。

それが、しばしば父であったのだということです。

これが、本当の意味での精神的自立だとも思います。

それは、恋と共にやってきます。

苦しみを伴うのは、私たちのなかに他の誰かがいるからです。

そして、私たちの恋が本当の意味で実るとき、私たちは苦しい恋をするのではなく、幸せな恋ができるんじゃないかな。

 

だから、この精神的自立。

もとい、親から自立するとは親にも似つかない誰かを好きになることを自分に許可することだとも思います。

そんなとき、ようやく「好き」に気づくのだと思います。

その速度は、やっぱり女性の方が早く、男性の方が遅いかもしれません。

誤差はあるのかもしれないけど、それでも、女性の方が早熟に好きに気づき、男性の方が後から気づくのかもしれません。

ですが、その心の温度差に差があるとは思いません。

 

彼・彼女を忘れられないとか。なにかをしても彼・彼女に繋がってしまうとか。

それは、たぶん、脳やエネルギー体にしみこんだトラウマです。

そのトラウマがあるのまま結ばれるわけにはいきませんでした。

本当の好きに気づくために、私たちは、トラウマを乗り越えていかなければなりません。

本当の好きとは、世界の中心に彼・彼女がいることです。

それは、ほのかに香るものであり、私たちが意識しなければ受け取ることが出来ません。

それは、忘れられないという言葉では言い表すことはできません。

私たちが意識を持たずに受け取れる心ではありません。ですので、忘れられないという強烈なものではありません。

なぜか思い出してしまうなどのものでもありません。

私たちが意識して「感じようとする」「気づこうとする」というものであり、それは知性により知覚されるものです。

ふと、過去を振り返って「なんでこんなに彼女が自分の世界の指針になっているんだろう」と気づくとき、私たちはこの恋心に気づいていきます。

これに名前を付けることがなかなか出来ないものだとは思いますが、それが恋だと気づくだけの知性を私たちは身につけられていると思います。

 

私は、恋をしました。

それは、父にもよく似つかない人でした。

本当の私は、彼という存在に惹かれていました。

従来の私と本当の私が争い始めました。とても苦しい思いをしました。

ですが、あなたに出会えて私はとても嬉しかったです。

そして、これを『二度目の恋』だと私は断言します。

また、これは本能ではありません。これは知性のなかにあります。

私たちが本能的に求めた情熱ではありません。

私たちが知性的に求めた優しいものです。

だからこそ、私たちは慎重にならざるを得ないのかもしれません。

 

大人になるとは、このようなことなのだと思います。

それは、父や母という面影を求めるのではなく、たったひとりの世界の中心点を見つけることです。

恋とは、世界の中心軸なのだと思います。

あなたがもし、本当の意味で恋をしたのであれば、きっとサイレント中に「すべてが塗り替えられる」ことになるかなと思います。

最後には必ず「相手がすべて」であるところに行き着きます。

そんな日まで、私たちは、自分を恋のままに塗り替え、世界を恋のままに切り替えていきます。

最後に私たちがエゴイズム的な人生を送ることができる時まで。

私たちが、世界よりも、ツインレイを選ぶことができる時まで。

そのときまで、私たちは再会をすることができません。

恋が行方不明だからです。しかし、私たちの霊だけはわかっています。

だからこそ、あるがままに進むべきだと思います。

私の道は、彼により示されている。案内役は、心の中にいる。

信じるとはこのようなことなのかもしれません。