責任からの解放、私が背負っていたもの。

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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昨晩、お風呂に入っている際。

自分の意識をお風呂のリラックスに合わせてみた。

したら、ふと見えるものがあった。

私の背中に何かがしがみついている。

思い浮かべられるものは、姉、姪っ子たち。

なるほど、私は姉の責任を取っていたんだなと思いました。

 

翌日の今日。

腰が軽いです。

腰は責任を意味するところで、責任が負担であると腰痛とかがでてくるんですが、腰が軽いですね。

負担だとは思ったことがないのだと思います。腰を何かやらかしたことはないので。

ですが、責任を取らないでいい部分までとっていたのだと思いました。

手放していこうと思いました。

 

ふと、姉が私にしたことを思い返しますが、すべてにおいて、その責任を私が背負い続けてきたこと。

だからこそ、私には姉により生み出された問題が引き寄せられていたのだな、と。

責任を負うとは、その人に成り代わるところもあるのだと思います。

私は姉だったのだと思います。そして、姉の身代わりでもあることが『責任をとる』という仕組みだと思います。

 

同じように、私は彼の責任もとっていたように思います。

でも、私は姉の責任はとりたくなかったんですけど、彼の責任はとりたかったんだと思います。

その責務がここに終わりを告げている。

私はもう彼の責任をとらなくてもいいのだと思います。

 

それは、私のなかで分離したものがありました。

苦しんでいる人がいたとしても、その苦しみを引き受ける必要性はありません。

悲しんでいる人がいたとしても、その悲しみを引き受ける必要性はありません。

人それぞれ、苦しみや悲しみがあります。それに私は共感を示すことは出来なくなります。

誰かを癒すことも出来なくなります。

ホントのところで、誰かを理解することが出来なくなっていきます。

同じように苦しみ、同じように悲しむことがどれだけ素晴らしい時間だったことかと思います。

自分のことのように、誰かの苦しみに寄り添えることは、私のなかで喜びのひとつだったからです。

ひとつになれること、同じように何かを感じられること。

もしかしたらワンネス。ワンネスの世界に喜びが私にとっては詰まっていました。

ひとつになれる喜びです。

でも、私は彼に限らず、誰かに対しても、同じように苦しみ、同じように悲しむことはなくなるのだろうと思います。

できなくなっていく。

ですが、つらい時も、苦しい時も、悲しい時も、そばにいます。

それだけで励みになれるような人になれたらいいなと思いました。

 

今までは、同じように感じることが大事でした。

でも、これからは同じように感じられませんが、話を聞くことだけは出来る人になっていきます。

それだけいいのだと思いました。

 

私のワンネスになれる力は、私のエンパスの力は、私が依存性があったからなのだと思います。

どこかで障害はひっくり返せば、才能が眠っているものだと思います。

これが私の人生で明かしたひとつの証明です。

生きる上で、この世界のマイナスも極めぬけば、それはプラスに転ずることがある。

同じように、才能もまたプラスであれば、マイナスに転ずることもある。

だからこそ、私たちはゼロを探している。どこからでバランスがとれる中庸を探している。

だけれど、それがわかるのはプラスとマイナスを知っていなければならない。

障害も極めぬければ、プラスに転じ、この世の世界の理を覆すことができる。

だけれど、そのためにはやっぱり努力が必要なんじゃないかなと思う。それは、とことん落ちることだと思うから。

とことん意思を持って落ちることは、その先にあるプラスにひっくり返る。重量の話です。

この地球には重力があるからこそ、ひっくり返しやすいかなとは思います。

 

 

そして、中庸地点にくるとわかるんです。

私は別に才能があったわけでもなければ、私は別に障害があったわけでもないのだと。

私に大きな荷物を与えた人がいて、その荷物を増やしまくったら、重力の問題でひっくり返ったって話でした。

自ら荷物を増やす人もいれば、人に荷物を預ける人もいる。

ですが、私は中庸地点から思います。

それぞれに荷物を返そう。私が預かっているものを少しずつ返していこう。

その荷物が重くても、それは自分のものなんだから自分で抱えるようにと言える強さが私には必要でした。

それは、共感しない強さです。

あなたの苦しみはあなたのもの。私の苦しみは私のもの。

何もしないけれど、私はそばにいる。

私が責任を解放した先にあったものは「そばにいる」です。

どんな荒波がやってこようが、そばにいること。

同じように苦しむ私にとっては、なかなかそれが出来ないでいました。

ですが、これからは、苦しむ人と同じように苦しむのではなく、苦しむ人のそばにただありたいと思いました。

苦しみをなかったことにするのではなく、苦しみを無視するのでもなく、ただ、そばにいる。

 

私には、ただそばにいるだけの強さが足りていませんでした。

優しさでもありました。ですが、その優しさは、もう必要がありません。

もし、サイレントの始まりがあったのだとしたならば、それは優しくしたくなる自分をどうにか抑え込みたかったのだとも思いました。

そばにいるだけだと、同じように苦しかった。

だから優しくしたくなる。

でも、優しくなるんじゃなくて、同じように苦しんでしまう自分をどうにかしたかったのかもしれない。

いっしょにいるだけで苦しかったのは、彼が苦しんでいたからなのだと思いました。

だけれど、苦しむ彼のそばにい続けるために、私はどうにかこうにか、彼を手助けする方法と、彼のそばにいても苦しまない自分となる必要性がありました。

あのときのままの私では、どうしようにもできない状態だったのだと思います。

今までのやり方では、今までの私はどうしようにもできない人でした。

だからこそ、私が変わらねばなりませんでした。

ですが、本質的な部分は何も変わらないのだと思いました。

きっと私は彼を助けることも出来ません。同じように苦しむことも出来ません。

しかし、そばにいるだけで何かが変わるのだと思いました。

だから「そばにいるだけでいい」のだと思います。

そんな自分に成る必要性があったのだと、今では思います。

 

彼を背負うのではなく、同じように苦しむのではなく、今度はそばにいるだけでいい。

彼はそれ以上を望んでいなかったのだと思いました。