ツインレイの能力の反転について

2024-05-27

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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彼と私の守護龍が反転していたと同時に、能力が反転していたように思う。

その反転における経緯である。

 

ツインレイはそれぞれお互いに見合うものを差し出していると思われる。その差し出し合いを愛により受け取りあっている。

そして、それぞれ見合うものは能力値として対等として考える。

人間のなかにあるキャパシティーとして、そのキャパシティーとしてイコールのものしか差し合えない感じ。

 

私の場合、基本が精神力と自己分析能力だと思われる。

彼の場合、基本が思考力や分析能力だと思われる。

私に足りないもの。私が足りないものとして思考力があったんだと思う。また、その思考したものをアウトプットする言語性。

思考は出来るが、それをアウトプットする能力が私には少々「詰まっている」感覚がしていて、詰まっているとは私のなかで自分の理論を構成したとしても、それを言語化させ、文章化させることが1週間に一度できればいいほど。

理論の文章化後、3日間は脳がヒートして動けなくなる。そんな感じの人だった。

彼にいただいたものは、その回路を脳がヒートして動けなくなるような部分のブロックを外し、毎日、文章を書けるようにしてもらった感じ。そして、それを使い倒していたのが私。

彼に足りないものが何なのか? は、わからないのだが、思い返せば、彼は「精神力」が低かったかなと思う。それから自己分析能力が低かったような気もする。つまり精神的なものへの知覚ような感じ。

たとえば、人に八つ当たりしちゃったりあるわけなんだが、その最中、八つ当たりしている感覚なんてなくて自己正当化にはいってしまう状態がある。

ほかにも、人に攻撃しているつもりもなく攻撃してしまったりすることもある。当人には自覚がない。

つまり、無自覚の攻撃性っていうものがあって、私はそれを極限まで抑制することができる。それがもし人格障害になりかけようとも、私はそれを抑制する。

これは強烈なる自我。自分が自分であり続ける強い意思みたいなものだという。

超自我、自我、イドとなり、この超自我とイドのパワーバランスを自我が保っているのだが、この自我がものすごく強いのが私である。それが精神性であり、精神論でもある。この精神論を確固たるものとして守り続けることにより、私は超自我とイドのパワーバランスを保ち続けている人って感じ。

この自我が揺らぎやすいと、精神的に弱りやすくて、病みやすくなる。

たぶん「きっと、私の結婚相手は精神的に弱さそうなので、心理学やるかな。」って感じで色々勉強はしていたものの、重要だったのは、暴走する精神を凌駕するだけのメンタリティーだったのだと思われる。

考えてみれば、彼くんはここが弱かったのかな? とも思う。人生って「ひとつ」ぐらいしか出来なくて、彼くんは知性を育てる代わりに、この精神力みたいなものはちょっとおざなりだったのかもしれない。

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私自身が「彼を愛する」たびに、私は私のもとへ「彼」がやってきた。

それは、彼の能力による悪である。

彼はほとんどの能力を善として使っていたんじゃないかな、その反面、悪が生まれてしまった。私が彼の能力による善を受け取るたびに、私のまわりには彼の「能力の悪」を持っている人たちが集まってきた。

図の説明:最終的には彼の能力&自分に戻る感じ

彼の能力の悪の人たちは男性たちだったなァ。知性に関することの問題を抱えている人たちばかりだった。

基本は攻撃されることがデフォルトで、最後はもうフルボッコになっていた状態。「なんだこれ?」と思いながら、最終的には「彼と一緒にいたらいけない衝動」にかられるがままに、離れていったあと、離人してていた。

もはやふらふらな自分となり、数か月後当たりに「一個じゃなくて二個になれるよ」と言い始めた私は、そのまま、彼の能力を習得していった。脳回路が複数の回路で認識できるようになっていった。

そして、同時に、私に引き寄せられるようにしながら、私の能力の悪を持った人たちが集まってきた。

内容的には「自分はすごく偉い人たち」である。自分は出来ている、自分はわかっている、自分はやれている——みたいな人たちでいいと思う。つまり、最終的なテーマが「高慢」にあったように、私のなかには高慢と傲慢が眠っているような状態だったとも言える。

彼の能力は「高慢に値するもの」だったんじゃないかなと思う。それで、高慢と傲慢が引きずり出されていく感じ。そして、その多くが私の能力を悪用している人たちだったと思う。

それは精神力とは「自己正当化の道具ではない」のである。精神力とは常に「自分が間違えている可能性を感じて、それを受け取る力」であり、強い自己否定に耐え抜くものでもあるんだが、それを自己正当化の為に人を殴り、人蹴り飛ばしては厚顔無恥を晒しながら「自分は悪くない」と言葉にできる人たちな感じ。

 

これは、彼の知能は「自己正当化の道具ではない」ってことなんだと思う。私は、あなたを正当化するための道具ではない。

私がもし、最初から彼の能力を持っていたとしたならば、それはもしかしたら高慢な人間になっていた可能性もあるってことでもある。

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しかし、私たちはこの経緯で、たしかに脳の遣い方を切り替え、脳の働きを活性化させ、新しい能力を手に入れたともいえる。

どのように理解し、どのように解釈し、どのように感じているのかを私はダイレクトに彼を経験した。そして、その彼がとてつもなく優しいことも知っているし、よく「考えている子」なのだとは思う。

だけれど、私たちに交換できないものがある。それは「心」である。

私たちは、今回、守護龍を交換した。その経緯で、私たちは龍における能力を交換した。

その交換により、新しくできることが増えたように思うけれど、私たちには「心」だけは交換することができない。

それは私たちがどのように感じ、どのように捉え、どのように思っているのかを交換することは出来ない。

つまり私たちは心だけはオリジナルなのである。

それ以外のものは「育ち」や「経験」に依存したものとなり、私たちの才能みたいなものは自由ってこと。

そして、その才能を使う善悪の心もまた違うモノなんじゃないか——と思った。

 

私は、人それぞれ才能があるとして、その才能を活かすも殺すもその人次第と思っている。

才能はある角度から見れば、人を殺すことも出来れば、人を生かすこともできる。

それは心の善悪による判断なんじゃないかと思っている。

もし、なにかを持っているのであれば、それは人の為に使うモノであり、自分を守るために使うものではない。その善悪における判断を持ち合わせているかどうかにより、人がどのような人生の行く末となるのかをみてきたような気がする。

心の在り方ひとつだけで随分違うものだなと思った。

 

あなたはその心で感じることを忘れていないだろうか。

 

 

 

「なとちゃは山のてっぺんにいるけれど、彼くんは山を登ってきている。なとちゃは山登り方を知らないけれど、彼くんは知っている。」

「なとちゃは天才、彼くんは優秀。」

私は山の登り方を知ったし、彼はなぜか山の上にいる謎の気分を知ったかな? 心が教えてくれるよ、答えはいつも。