自己破壊による創造から、愛による創造へ。

2024-05-26

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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やりきるしかないんだと思う。

 

私は、彼くんと離別しきる。別れを明確に受け入れたあと、爆発的に脳のスロットが上がった。並列思考が始まり、いくつかのアイデアを並行的に練るような思考回路が成立した。

同時にブログを立ち上げ、書き続けることになった。これを創造性の爆発とする。

それは、彼を愛した経験である。

私は「私」がいた。私は彼を愛した。その愛は、私がいるからこその自己破壊でしかなかった。

この自己破壊は「私」がいたからである。なんなら、私ではない私がそこにはいたからである。

もし、私が「私」だったならば、私はあのとき、また違ったんだろう。

だけれど、あのときの私は愛すれば愛するだけ傷つくしかない人だった。それでも愛したからこその自己破壊を起こし、その自己破壊は、創造の回路をつくった。

私のなかには新しい回路が生まれ、私は「私になろうと」した。私は私になろうとし、私ではないものをすべて捨てきり、私は私だと思う私に創造をしていった。その答えはすべて「彼」が知っていたような気がする。

私は彼を愛した経験から、私を愛したのである。その経験により、私は私らしくのである。愛したからこそ私は私なのだ。

もし、彼が私を大切に思う心があるのであれば、もしかしたら、それが彼の愛なんだと思う。みんな、愛情の形は違うから。

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私はこのブログでツインレイの探求を行った。その経緯で、常に彼がそこにいたこと。その彼がそこにい続けるなか、私が考え続けたことがこのブログならば、これは「彼へのラブレター」なわけで、また、私がずっと蓄積し続けてきた彼へ受け取ってもらえなかった愛情の数々でもある。

私は差し出しているけれど、彼は受け取れない。そもそもその『回路』がないのである。

いつかのナギナミがどんなに頑張っても、当初は創造を失敗したように、私たちは呼吸を合わせることができない。創造が合わせられないのである。

私は彼へラブレターを書き続けているのは、たぶん、自己破壊による創造性を持て余しているところもあるんじゃないかと思っている。

愛しているねんで。この情熱をどこに向けたらいいのか? 私が出来ることは「書くこと」「考えること」にあり、だからこそ、私はそこに熱量を注いでいたんだと思う。

当人がそこにいないからである。いない相手に「好きだよ」だなんて囁くわけにもいかないわけで、だから私は、とりあえず、昇華していく必要性があった。

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今ならば、少しは彼が何を考えていたのかがわかるよ。この創造性によって彼がどうして離れたのかの理由も「うすらぼんやり」とわかる。

そして、彼が別に私を嫌っていたわけではないことも知っている。だけれど、どう思っていたのかを明確に知ることはない。私は彼ではないからだ。だけれど「うすらぼんやり」ならば、なんとなくわかる。

 

愛がどこに向かうのかは人それぞれなんだと思う。愛がどこへ向かい、その心がどこへ向かうのかはわからないんだけれど、その愛が本当に自己破壊を起こしているのであれば、私たちは創造しなければならない。

私たちは私たちを、そして、何かを創造しようとする。それが「愛」だからである。

だけれど、自己破壊による創造は果てしない。どれぐらい破壊しつくしたのかわからない。

この破壊の量だけ、私たちは創造しなければならないし、考えなければならないし、何かを創らなければならない。

 

愛ってそれって「感情」だと思うけれど。

同時にこれは「知性」でもある。

愛すること。これは知性により行われている。愛とは知性にあり、また同時に抑制力の強さにあり、そこに心通うとき、私たちは愛を生み出す。

もし、感動が優しさに繋がり、知性が想像につながるのであれば。

愛とは知性と感情の連動である。この連動性が生まれたとき、私たちは「心」を産む。

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私は感情の塊だったけれど、彼は知性の塊だったんだなって思う。

だから、私は創造の段階で「知性」を手に入れた。この知性は感情と連携して、このラブレターを書き続けてきた。使い方、使い方をもうちょっと有効活用できたんじゃないかなって思うけれど、感情は知性と繋がり、私の知性は強い感情により連動して発揮されたように思う。

もし、彼が私を愛し受け入れてくれていたのであれば、私の「感情」を手に入れ、彼の知性は感情を生み出したんじゃないかな。強い「怒り」を覚えたんじゃないかな。

そして、そこに「心」が生まれてくる。

知性と感情の循環が生まれたとき、私たちは心を生み出している。

ひとり目は、優しい子。知性の高い子。

ふたり目は、創造の子。感動が強い子。

三人目は、心の子。知性と感情が循環し、そこに「心」がある子。

 

私は彼くんに「なとちゃがお姉さんだよ。」と偉そうにしているのが楽しかった人なんだが、彼くんのほうがお兄さんのことは知っていた。年下だけれども、彼の方がお兄さんだった。だけれど、私のほうがお姉さんだよって言いたかった。

彼がお兄さんだから、私がお姉さんだよって言いたかった。

もしかしたら、これが循環なのかもしれない。

彼は知性があって、感動がある。

私は情動があって、知性がある。

そして、それが「心」になる。その心を生み出し、その心をもし受け取ることが出来たのであれば、本当の意味であなたを愛することができるのかもしれない。

日本列島を創造することができるのかもしれない。

 

創造は「そこ」にあった。私が強い情動から知性を動かすとき、私は常に創造を横に据えた。

そこに愛と言う心が加わるとき、私たちは神話を創造する。

創造って「心」から生まれたものだった。それは情動と、そして知性と。次に、心が生まれたと同時に神話が生まれる。

神とは心である。あなたのなかにある循環である。その循環が愛であり、中心にはいつも神の心がある。

それが仁であり「二人」である。ナギナミである。