ツインレイの覚醒段階による『ツインレイの覚醒まとめ』
ツインレイとは潜在意識による双子であり『他者が好き(主観)』と『他者を大事にする(他者への感情)』という構成をしている。
潜在意識は「好きなものを理解する」ことであり「人を大事にする」ことを重要視することで繋がることができる。
ツインレイの男女は『好きなものを理解している側』と『人を大事にすることを理解している側』のふたりに分離している状態である。もうひとつの側面性は理解していない状態で出会い、第二サイレント期間から相手が持っている潜在意識を内包することになる。
ツインレイの覚醒段階で、人を大事にする側は好きなものを思い出す。主観を知っている側は人を大事にすることを思い出す。
『思い出す』としているのは、元来の潜在意識は知っているためにある。
ツインレイの潜在意識の片方は『好き』を理解していないために『嫌いの満載世界』へ入り込むことになる。
片方は『大事』を理解していないために『大事にしない満載世界』へ入り込むことになる。
この『嫌い』『大事にしない』のふたつを切り捨てることにより、ツインレイたちは元来の『好き』『大事にする』という意識を取り戻すことになる。
ツインレイの覚醒とは、自分自身が人生のなかで呼び戻した潜在意識が主観(好き)か、客観(大事)かにより、覚醒の内容が変わってくる。また、サイレント期間の内容も変わっている。
ツインレイの覚醒とは、ツインレイの相手が持っている潜在意識を取り込むことでもあるが、それまでの間に、他者という概念や自分という概念の成立をも行っている。
他者との同一化、他者との分離化。
自他同一化とは、自分と他人は同一であるという意識である。このとき、他者による行いはすべて自分の行いそのものであるとして捉える。このとき、すべてにおいての現象は自己責任である、という意識を成立させる。
自他分離化とは、自分と他者は別の存在であるという意識である。このとき、他者による行いはすべて自分の行いによる派生でもなく、まるで関係性がない現象であり、他者責任を成立させる。
このとき、自他同一化により『自己責任』を自立させ、自他分離化により『他者責任』を自立させることに成功する。
このとき、自己独立性と、他者独立性の概念を自己のなかに成立させることにより、ツインレイとして各々の存在を自立化させ、分離したまま、存在の樹立を成立させることができる。
ツインレイの片方は『他者をも自分の責任である』という自己責任を成立させており、これは『ツインレイの相手の責任をとる』という意識である。こちらはHSP的な気質であり、人が持ちえるべき責任的な問題、いわば感情や意識、行動、発言による他者の問題はすべてにおいて自分がそうさせたものである——という他者と自己による同一化により生じる潜在意識の最終的な結論でもある。
ツインレイの片方は『他者と自分の責任による相関性はない』という自他の責任による分離化を成立させており、これは『ツインレイの相手の責任と自分の責任は関係がない』という意識である。こちらは他者と自己の分離意識が強いために孤独的な感覚が強い気質により生じる片割れにある。人が持ち得る責任と、自分が持ち得る責任は関係性が存在しないため、人と自分とのつながりを感じることがないため、孤独的な感覚を持っている。
互いに、潜在意識を持っている『主観(好き)』と『客観(人を大事にする)』という意識は、それぞれ他者に向けられての問題性であり、自己に向けられたものではない。
サイレント期間により生じる問題は、ツインレイの盲点でもある。
ツインレイが内包していく闇は『嫌い』と『大事にしない』という感性にある。ツインレイたちは『人を嫌う意識』『人を大事にしない意識』を持っていない。
サイレント期間のツインレイたちは、ツインレイの片割れとなってツインレイの相手の意識を学習していくことになる。
いわば、人を嫌いになることがない。人を大事しないことができない。そんな状態で、ツインレイの相手が持っている潜在意識を内包していくことになる為、『人を嫌いになる』『人を大事にしない』ことを学んでいくことになる。
人を嫌いになるとどうなるのか、人を大事にしないとどうなるのか。その結果を、自ら以外による視点により学習し、また、その意識を内包した結果、自己のなかに成立する善悪二元論が二元性へと昇華するのである。
好き—嫌い、大事にする—大事にしない。
この両天秤性のなか、善悪の思想が介入している為、
好き(善)—嫌い(悪)、大事にする(善)—大事にしない(悪)
このような両天秤性となっている。
ゆえ、サイレント期間に生じる闇とは、
好き(悪)—嫌い(善)、大事にする(悪)—大事にしない(善)
というような構造をとっている。また、自分自身が、この闇の状態に陥るまでに自らを落とす必要性がある。
また、その結果、
好き(嗜好)—嫌い(嗜好)、大事にする(行動する)—大事にしない(行動しない)
というような、自分自身の善悪的な概念を二極化に至らせたときによる中庸性により生じる『嗜好の問題による結論』『行動による結論』というような中心点を見つけることができる。
この二極化の両極端性を理解することにより、自分自身がもっている二極化を理解し、善悪二元論を脱却していくことに繋がっている。
ツインレイの目的は『善悪二元論の脱却』であり、善悪による判断による世における問題を減らすことでもある。
いわば、善が生じれば悪が生じる。しかし、悪が認識され続けている限り、善という存在が悪を滅するという相関性はなくならない。
存在そのものに対して『悪』という定義をした時点で、私たちは善となって争わなければならない。
それは私たちが嗜好と善悪の定義を結び付けているためにある。
好き=善であるため、善であり続ける限り、悪が発生し続け、その悪を叩き続けている限り、私たちにとって敵はいなくならない。次から次へと悪は発生し続けるということだ。
私たちツインレイが行いたいことは『善悪二元論』を『二元性』へあげていくことである。またこれは学習の段階でもある。
このときに生じる闇とはいかなる存在かといえば、自身が保有している『悪の概念』でもあり、私の場合、その悪を『嫌い』にまで貶めることにより、嗜好による判断だと結論づけることによる自信のなかにある悪を排除するようなことを行っている。
また、闇の役割をしている人の責任を、自分がとる瞬間もあれば、自分がとらない瞬間もある。
自己判断的に、闇の役割により与えられた心理的ダメージは自己の問題だととらえるべきだが、闇の役割そのものは闇の存在そのものが背負うべき問題である。
同様に、自分のなかに保有している『善の概念』もまた『好き』にいたり、またあるときは『嫌い』になる必要性もある。
自分の潜在意識の流れに沿って流れていくことにより、自分が『二元性』にまで至りたいことまで理解していれば、また周囲の状況により与えられるものを享受するだけで自己の発展は遂げることができる。
ツインレイの多くが、言葉のバックグラウンドの理解が浅いと言う問題点がある。
『ツインレイとは何か』。まず、この定義が自己のなかで成立していないこと。
『覚醒とは何か』。この定義が自己のなかで不成立であり、また『統合とは何か』の定義もまた不成立状態である。
いわば、他者に提供された定義を丸ごとに鵜呑みするのか、また丸ごと否定するのかのどちらかとなってしまっている。
私がもっとも重要だと考えるのは『自分にとっての正解』を導き出すことである。自分にとっての正解は、自分しか知らない。その自分にとっての正解は常に他者にも与えられ続けているのだ——ということである。(この点が自他同一化や自他分離化の意識でもある。)
与えられた答えを受け取る受容性も必要であり、また与えられた答えを再び自身のなかで練り直す必要性もある。このとき、自己の中で否定も肯定も存在していない創造性を発揮することができる。
この創造性により、私たちのツインレイは成立している。ツインレイは『創造』にある。
したらば、私たちは破壊もセットだということだ。その破壊の役割を担っているのが闇もであるが、ひとつ私がいたった答えは創造に対し、破壊する必要性などひとつもないのだということである。
創造をするためには『無』からによる創造をすることができる。
なにもない世界に、想像をすることができるのだ——ということだ。
しかし、私たちは『無』を知らない。なにもない境地を覚えることなく、善や悪を破壊せねばならないと考え続けている点が問題なのである。
いわば、破壊をせずとも、私たちは無の世界を先ずは構築し、そのうえに創造をすればいいのである。いわば、これが『世界』であり、私自身が誰も傷つけずに済む方法として率先して行ったものである。
ツインレイが行っていることは複数の側面性がある。
そのうちのひとつとして『潜在意識の浄化』もあげられる。ツインレイのふたりが結ばれるために必要なことは潜在意識がまるでまっさらとなることである。
傷ひとつ無い潜在意識の状態となることにより、ツインレイの男女はツインレイの楽園を構築することができる。
ツインレイは潜在意識がまっさらでもある。いわば、新しい潜在意識を取り入れるサイレント期間に潜在意識が傷つけば、ツインレイの再会は出来ない。
いわば、ツインレイの再会を遮る闇は、ツインレイの潜在意識を傷つけることに余念がない。(たんに闇からすればツインレイはcomplexである。爆)
しかしツインレイの潜在意識は傷つき、傷を治すの過程がめっぽう早いことをも書いておこうと思う。理由はわからないが、翌日には解消されている状態である。
過程で悪夢を何度も見るようなことにもなるが、最終的には完全的にまっさらとなる状態にまで至ることがツインレイの覚醒の完成である。
また、闇による干渉がツインレイの出会いから再会までの期間は強い。
闇の干渉とは『ツインレイを操作すること』でもある。ツインレイを悪い方へ、悪い方へといざなわれていくことになる。これは『生霊』等をも使われるために、サイレント期間は生霊問題とも対峙する。
しかし、ツインレイの覚醒段階にいたれば、ツインレイを操作することを闇は出来なくなっていく。ツインレイを操作できなくなった時点で闇の暴走が始まる。悪口が始まった時点で悪の降参がはじまっていく。
闇の暴走が悪化すれば悪化するほど、ツインレイが他者の干渉に惑わされないようになっていく。またツインレイの相手を受け入れるようなことも起きていく。
この闇を自身のなかに介入させ、また排除するまでの過程がサイレント期間では設けられている。
自分自身が人生のなかで『人を大事にする(闇:人を大事にしない)』、『人を好きになる(闇:人を嫌いになる)』という闇を排除する過程があったように、サイレント期間ではツインレイの相手が闇を内包し、排除した過程を約2年ほどで完了させることになる。
サイレント期間では、もっとも何度も布石を置いたりなど、ふたたびツインレイの再会をするために行うことがある。
これから、闇との対峙等ある方や闇と向き合っている方に言える言葉があるとしたならば、闇は闇。真っ当な人間が見れば『関わらんとこ』って思うし『なんか嫌だな』って思う人はやっぱり思っている。
闇自身も『嫌われるような自分を体現すること』に余念がない。なぜならば、あなた自身を嫌がらせをしたいから、自分自身が嫌な人間になるしかないのである。
同時にこれは『あなた自身が闇を嫌な人間にさせている事実(自己責任)』と『闇が自分で自ら嫌な人間を実行している事実(他者責任)』のふたつの意識を認識するときでもあるように思う。
これにより『自分』と『他人』の棲み分けを行っていくのだ、ということ。
最終的に、ツインレイの覚醒により、引き寄せの法則がそれなりに理解が出来るようになる。
もっともツインレイのふたりは潜在意識による分離ゆえに、引き寄せの半分は出来ていたことはずである。
つまり『目標を設定する』『その自分になるために努力をする』。このふたつのスパンが潜在意識の働きであり、引き寄せの法則とはこのスパンを上手く活用した実用例に過ぎない。
潜在意識は常に『なりたい自分になる協力者』であり、意識は常に『実行者』である。
自分自身のなかで潜在意識と意識が協力体制にあり、なりたい自分に一先ずはなれた時点で、ツインレイのふたりは出会うのである。
意識が言い訳をし続け、潜在意識が望むなりたい自分になれていないとき、ツインレイと出会ったとしても離別の道を進み、恋愛関係に至ることはないということだ。
理由は、なりたい自分になる。それがツインレイとして出会う条件であり、また出会うだけの自分になれたという自負でもありながら、ツインレイの相手に気づくサインのひとつでもある。
ツインレイの統合とは私自身は『循環』として設定している。
また、この段階に差し掛かるまで『好き』を探し続けるのが私であり、彼は『大事』を探し続ける必要性がある。
最終的に『好き』と『大事』を見つけた結果、感謝が降ってくる。この感謝こそが循環であると私は信じている。
私自身がツインレイの統合にいたるまでの経緯で、基本的に心がけていたことは「わからんもんはわからない」ことやマイナスを受け入れ続けたことにある。
これは自己も他者にもである。
自分の間違いを認めること。自分が正しくはないことを受け入れ続けること。自分はわかっていないことを認識すること。
実はこの『自分は完全ではない』という意識こそが私のなかでは完全であるという思想があったためだ。
不完全である、盲点がある。自分にとってわかっていないことがある。そういった自分の概念にとらわれすぎず、柔軟的に捉えていくことで私はサイレント期間で多くのことを吸収することが出来た。
私のことをほとんどの人が『自信がある』と言っていた。私は『マイナス面の自分を認識し続けていくことができる自分である』。この事実を常に受け取り続け、自己の成長に繋げていくことができる人格である私を信じていた。
少なからず、私は自分の理論が正解だとか、自分が正しいだとか。そういうことにこだわりなく『自分の成長する人格』を信じることが出来ていたということ。これが私の自信の正体である。
また、私自身のこの失敗の数々が多くある。私は間違いからしか学ぶことが出来ないような——。そんな世界にいたもんだから、失敗だらけのなかで結論を導き出し続けたものがきっと、これからのツインレイ達の役に立つのではないかと思っている。
私の失敗を、多くの人が失敗しないように進むための基盤として使ってほしいと思っているのである。
しかし、私はこれから失敗ではなく、成功を進もうと思っている。
どうやら、もう自分のなかで多くの『確立』というものが出来た。それは私の人格でもある。私自身の人格が二元性を成立させ、潜在意識と意識の協力体制を強固にさせていることやツインレイの統合へと発展することが出来たこと。
多くの『結果』。その結果が、私の自信へと繋がっていくことにもなる。
つまり、私は私の人生の結果を受け取ることにより、それを自信とし、発展していく世界に切り替わった。
私は私を信じる『自信』であるとき、それは『今の自分』を信じているだけだった。しかし、その軌跡により『結果』が伴った。多くの弊害や、意味の分からない出来ことも多くあった。支離滅裂理論に呑まれて統合失調かと思わしきような痴態も晒しながらも、最終的に私は結果を手に入れた。
その結果こそが私の『過去』である。
その過去と今が繋がり、また、そのふたつが『未来』を織りなしていく。
私たちは知っている。知識を持っている。しかし、それに賛否両論を述べている時点で経験はそこにない事実を知らなければならない。
私たちは経験したなかでしか『気づけないこと』がある。
知識がある、話を聞いた。これは気づいたわけではない。ただ分かった気になっているだけなのである。
私たちは経験するしかない。経験してようやく『気づく』のである。その気づきこそが私たちの成長であり、また学習した内容を実行し、ようやく気づいて反省することも多くある。
私は北海道が遠いことは知識としては知っていたけど、北海道が遠いことに気づいたのはつい最近である。
知らねばわからないことがある、だけど、しっているだけで経験とは呼ばない。やってみてこそ、ようやく気づくことにより知ることこそが『人の経験』である。
ツインレイの覚醒とは知識では与えられない。ただ『一生懸命にいいわけせずにやってみる』しかない。自分が正しいと思う道を突き進み続け、そのなかで気づく内容や感じたことによって「これは間違っている(悪)」「これは正しい(善)」と判断し、自分のなかで秩序を生み出していく必要性がある。
この自分のなかで秩序(善悪二元論)が生まれた状態になるまで突き進まなければならない。その秩序があるからこそ、私たちは二元性へ昇華することができる。
自由とはなにか、束縛のなかにある。束縛とは何か、秩序である。
秩序ある精神の中であれば、いかなる自由をも許される。いかなる創造をも許される。
しかし、秩序なき精神のなかに自由な創造など許されない。
私は『感情』と『知性』の対峙が起こり、中心点には『混沌(カオス)』が発生した。
混沌による対極により、秩序が発生した。中庸には『自由』が存在している。
私は創造を探していた。ようやく二極化の末路に創造を見つけ、覚醒の道を進む。
私の精神には善悪二元論による秩序が存在し、そして自由な創造が存在している。
これがツインレイの覚醒である。
また、私が右回りとしても、左まわりは存在しない。
なぜならば、地球の自転が真逆になることはないためである。ゆえに、私自身の『真逆の存在』とはありえない。
そして、私の真逆の存在がいるのだとしたならば『停止』である。
視点の違いにあり、右回りの反対は左回りではないということ。
真逆の存在など、存在しないのである。
ツインレイが真逆の存在であるとは本末転倒の思想である——というのが私の結論でもある。
多くの方々がツインレイの創造へと入っていく足がけとなれるように、最後にツインレイの覚醒のまとめ書きを載せていますが、ざかざか書き上げたので、まとまっておりませぬ。ご了承ください。