ツインレイには雷に打たれるような感覚は必要なのか。
私のツインレイの経験では、ツインレイとの対話のなかで対立したときに『雷に打たれるような感覚』というスピリチュアルな経験をしている。
雷に打たれるような感覚を覚えてから、私は『他人と自分は同一である』という自他同一化感覚を覚えることになった。そして、ツインレイの相手に対しては、他人という意識すらなく『自分そのもの』としても感じられた。
ツインレイの相手も同じように、雷に打たれるような感覚と、ふたりをひとつとして捉えるようなワンネス感覚を知った。
私の場合は『雷に打たれるような感覚』は、ワンネスへと近づき、また悟り経験の発端とも捉えている。
ツインレイの彼くんと話していると、雷に打たれたかの大ショックを受けたことが何度かありました。反発するかのような物凄い衝撃を受けて、それが繰り返され、何度も繰り返されていくうちに、最初は『雷』、次は『フライパン』。次は『あんぱん』みたいな感じで衝撃が落ち着いていく。
『大ショックを受けた』感じで、フリーズしていました。ときに心身を貫いた感覚はありませんが、その後、息絶え絶え状態のような感覚が続いたりします。
ほぼ、衝撃でうつ状態って感じしょうか。ものすごいショックなので脳が停止しているような感じ。
実は、この経験以外にも、学生時代からの友人——今ならばツインフレームだと確証がある——との間に、フライパンで殴られるような感覚を覚えたことがある。確認したところ、友人にはそのような現象を起こしたことはないという。
この雷に打たれるような感覚がなぜ生じるのか——についても、考えてみたいと思っている。
なぜ、雷に打たれるような感覚がするのか
大前提に、未熟な私たちは『善悪二元論』へと陥っている状況にある。
私たちは、ときに自分自身が持つ意思を貫き通すとき、『一極』へ偏ることがある。
一極へ偏ると、もうひとつの一極はおざなりとなり、自らの中から消失することになる。
このとき、私たちは意志の元に『善』に傾けば、悪は自らの中から消失され、その悪が外部からやってくるという現象が起きる。
この現象そのものが『ツインレイを呼び起こす原理』にも繋がっているが、この善悪のうち『悪』という意識に対して『受け入れる・愛する』ということができる状態になっているとき、善と悪が統合され、二元性へと昇華されていくメカニズムにある。
この経緯のなかで、私たちが自らのなかに存在する悪をすべて『外部』に押し出し、自分のなかから消失したとき「露にも思わない現象」というものを外部から発生させることになる。
自分のなかに存在しない意識ゆえに「どうしてそのようなことになるのかがわからない」という感覚だろうか。
このときに私たちは雷に打たれるような感覚を覚えることになる。雷に打たれるような感覚とは『死角』により生じると言うことだ。
もし、自分のなかで『これは悪いことだ』と思っていることがあり、それを抑圧しきる経緯があるとき、必ずこの現象を起こすということ。
悪そのものと善である自分が対立するとき、ふたつは均衡を保つことができる為だ。
そして、この雷が落ちるような感覚は、『自分の中には存在しない死角』を撃ち込まれるとき、脳がはじけるような感覚がしている。
ツインレイと『雷に打たれる感覚』
ツインレイたちは、相手と出会い『相手は自分だ』と思う。この感覚はツインレイ独特のような感覚にもあるが、相手が自分である感覚とは『常に私たちが持っている感覚』でもある。
理由だが、私たちは常に他者へ自己の投影を行っているためである。もし、この自己の投影を『さも真実かのように感じられ、身の保身のために投影(妄想)を真実として捏造』し始めたとき、これがパラノイアとなる。
私たちが本質的に持っている気質が人格としてパワーバランスを崩したとき『人格障害』となる。
ツインレイではなくても『相手は自分だ』と理解することは大いにしてある。そのとき、私たちは他者に自己を投影している『自分』に気が付いたということだ。
私自身が思うに雷に打たれる感覚とは『死角』にあり、その死角が生じることにより『善悪二元論から二元性』へとアップデートができるようになると考えている。
話を整理してみようと思う。
- 相手は自分だと思う感覚は雷に打たれる感覚により生じる。
- 雷に打たれる感覚は死角により生じる。
- 雷に打たれる感覚がなくても相手は自分だと思えるときはある。
1番目の項目と3番目の項目が、そもそも『成立しない』状態にある。
ここで『相手は自分だと思う感覚』についてだが、雷に打たれた感覚が生じたときの私たちは、ワンネス感覚にも陥っている状態にある。
ツインレイのみならず、他者のすべてと繋がっている感覚を覚えること。この感覚を覚えられるとき、雷に打たれる感覚が存在し、それは『自分のなかに存在する死角』があるためだ。
雷に打たれる感覚とは『新しい回路の作成』でもある。これが『善悪二元論』から『二元性』へのアップデートである。
雷に打たれるとき新しい脳の回路が生まれている
私たちもアハ体験などあるかと思うが、それと同じことにある。いわば、新しい回路が脳に生成されたとき、バチッと回路が作成されると同時に、脳疲労がでてくるので『うつ状態の疲労感』を覚えることにもなる。
もし、この新しい脳の回路が発生するときの勢いがものすごいでかいものだったとき、私たちは「卒倒」するわけだ。脳がはじけて驚き、またそれが『ひらめき』へと繋がっている。
私たちはツインレイの相手に出会い、雷に打たれたような感覚を覚えるとき、ツインレイの相手は『死角』にある。ゆえに、私たちにとって死角に存在するツインレイとはひらめきでありながらも極度のストレスを抱える相手でもある。
自分の概念を組み替えていく相手である。そりゃ結婚したり喜びのあることだったとしても、普段とは違うことがストレスという視点を持っている私たちの脳が、そんな大きなテーマを持ってこられたらストレスでしかない——。今までの概念を覆すのである。
雷に打たれる感覚が無ければ、それはツインレイではないのか
雷に打たれる感覚によって私たちは『概念を覆す』ことになる。善悪で判断していたものが、ツインレイと出会うと次には『犠牲や悪という概念がなくなる』のである。
私自身は『善悪二元論から二元性へのアップデート』という視点を持ったツインレイならば『雷に打たれる感覚』は必ず起こり得ることではないか——と思っている。
ツインレイは『自分』である。しかし、自分が『自分とは違うことを言っている・自分とは違うことを思っている』という感覚は『脳の回路が新しく生成されるぐらいにでかい驚き』なのである。(シナプスの連結が生じる。)
だからこそ、ツインレイの相手は『死角』ともなってしまうし、ひらめきともなってしまうし、ものすごい衝撃を受けるのである。
自分が『自分ではない』とは、とてつもない驚きだからこそ、魂がびっくりして衝撃を受けるということ。
ツインレイの相手は『自分ではない』のである。他人なのである。当たり前のことに、ものすごく驚くような瞬間が待っているのが『ツインレイ』ということだ。
雷に打たれる感覚は、ドでかい閃きの裏側に『自分が持っている魂の概念を組み替えれる感覚』により生じている。
ツインレイの相手を自分だと思い込んでいるからこそ、自分ではない事実に驚いている私たち。そんな私たちが『死角』を持っている。それがツインレイではないか——とも思う。
だけど、これは『私の近道』にあり、実際は、ひとつひとつ丁寧に広げていくやり方もある。そのような手段を持っている人たちに大きな死角は必要がない。
どちらも同じことにある。簡単に言うと本質的には同じだけど、手段をかえることもできる。その手段は各々が持っている道にあるということ。ちいさなひらめきの連続を起こしていく人もあれば、私のようにドでかい閃きを起こす人もいる。