私は神に愛されている事実を知りました。神の意識に繋がること。
私が気づいている範囲で、三カ所かな。神さんがいると思われますって話です。
ひとつは私がほぼ毎日、散歩に行く河川の横にある桜の木。雨の日の翌日、桜の木の横をトラックが通り過ぎる時、桜の木の下にだけ雨が降りました。このときに「神さん」を認識しました。
ふたつ目は私がよくいく神社にあるお池の横にある銀杏の木。お池に参拝しようとしたら、風が吹いて黄色の葉が舞い散りました。美しいなァと見惚れたとき、神さんがいるんだなァと思いました。
みっつ目はよくいくかつや。チェーン店のかつやですね。でも、すべてのかつやではないです。そこの店舗だけです。かつ丼を食べていると「愛している、愛している」と私の身体が囁きます。このかつ丼すげえなと思っていますが、近くに川がありますね。めっちゃ繁盛しています。
三つとも共通点として『水の神』『木』ですね。御神木なのかな? と思います、かつやはわからないです。
とりあえず、現象としては、その領域にいくと私のなかにあるトラウマが浮き彫りになります。無意識に無自覚にもアクセスしちゃいます。ゾーンに入ってしまうというか。他の場所だとないです。
それは神さんが私のなかにある憎しみとか怒りとか、不安や恐怖とか。そういうものをすべて受け入れてくれている存在のようで、私はいつも神に愛されていたんだなと思いました。
いつも通っている散歩道の桜の木には、すごくお世話になっています。何か嫌なことがあるとそこにいきます。無自覚にも、この三カ所は絶対的に通ってしまう感じですね・・・・・・。
そうすると、トラウマが浮き彫りになっていくんです。
認識として「ここに神がいる」と自覚が強くなればなるほど、トラウマの浮彫が激しくなるのと、それを受け入れることも、出来るようになります。
私が「神に愛されている」と自覚したときがありました。十年ぐらい前になるのかな。そのとき、私は無防備に人の為に生きる覚悟を決めました。
神に愛されていると気づいた場所ですが、実は散歩道の桜の木の近くにある交差点です。
サイレント期間中には「私は神を愛している」という自覚をもしました。神に愛されているし、同じように私は神を愛しています。それは自分のなかにある神の意識を受け入れることでもあったんだなと思いました。
ふと、今日は、なんでかつやと桜の木の麓では、自分のトラウマが浮き彫りになるんだろう? と思いました。そのトラウマはその後、表出しなくなるものも度々あります。大きいトラウマとか根強いものは消えませんが、頑張って克服しようとしているものなどは解消されていなくなります。
本当に辛いことがあると、夜でも、川沿いのベンチに座ってベソベソ泣いていたりもします。(家にもいられないほどに辛い時とか。)
そう考えると、無自覚に神のそばにいたんだなと思いました。
そして、今日「あ、やっぱり、ここには神がいるんだ」と本当に自覚しました。そうか、私の無意識のなかにある本来は許されるべきではない感情さえをも神は愛し、受け入れてくれている。
受け入れてもらえた分だけ、私はトラウマが解除されているんだ——と。
それはつまり、私は神に愛されているという事実でした。
たしかに、もともと「神に愛されている」と思っていました。しかし、神がどこにいるのかも知りませんでした。ずっとそばで見守ってくれていたんだと気づき、泣きました。
そして、その愛を受け取りました。愛されていました、私は確かに神に愛されていました。
そして、ツインレイの彼と話しているとき、どんどんとトラウマが解除されていきました。いかなる形かはわかりません。ですが、いっしょにいると解除されていきました。
ネガティブな感じで解除されていきました。彼に対しては「嫌なことされた」としか感じませんでした。ですが、結果としてはトラウマが解除されていきました。それに気づいてもいました。
ただ、神はネガティブな印象すら与えないんですよね。自分さえも受け入れられるように神は同化してくれている。
私のなかにいる神の意識にアクセスするというか。
私は神に愛されている、そして私は神を愛している。
それは、私のなかにある神の意識に私が繋がっているからなのだと思います。
神の意識に繋がるためには、無価値を愛することなのだと思います。そして、ここに存在しないことを愛すること。
神はみえません。実質的に神は何かを与えてくれているわけではありません。現実的に何かをしてくれる意識がありません。
神という存在は、私たちにとって価値もなければ意味もなく存在すらない存在です。
それは私自身のことです。
私は自分の価値がないことを受け入れ、自分の存在の意味がないことも受け入れていました。他者にとって必要性がない自分を愛していました。
誰かにとって必要がない自分という存在がいるとき、私はこの世で一番の役に立っているような気持ちがありました。
『役立たず』ということは、誰かの苦労がありません。苦しみがありません。悲しみもありません。憎しみも怒りもありません。私が今日も役に立たないということは、幸せなことだと思いました。
ですので、私はニートである自分をひとつの側面では誇りを持っていました。たぶん、これが神の意識へ繋がることなのだと思います。
人を等身大の自分というカタチにしたとき、神ベクトルにまでの等身大にするとき、私たちは『無価値』です。
自分には能力がありませんし、自分は無価値です。
私はブログを書いていますが、これが人の役に立てばいいとは思います。ですが、役に立たないのであれば、それ以上にない喜びがここにあると思います。
このブログをスルーするということは、そこに『自分のなかにある問題』がありません。問題がないということは喜びだと思います。ここにきて、このブログを読むということは、自分のなかに問題があるんじゃないかなと思います。
それが何かは人それぞれ違います。