ツインレイのシャドウ・闇の自己統合の経緯(闇を光に変換する能力)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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図の説明:光と闇の仕組み

下の階層になればなるだけ、ほとんどが闇の意識に溺れる。

光と闇の精神と現実構造
現実意識 精神意識
光だけ 一般人
光と闇 蛇の犠牲者という神
闇だけ 地を這いずる蛇

闇とは分離意識・光とは統合意識。現実と精神は結合はしても統合することはない。

一般人 蛇の犠牲者という神 地を這いずる蛇
図の説明:光だけ
図の説明:光と闇
図の説明:闇だけ
終わり ツインレイ 闇の刺客

グラフにしておいた。これが一番わかやすいように感じられる。

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ツインレイの光と闇と現実と精神構造

ツインレイがツインレイとして出会うためには、先ず『精神の闇落ち』と『現実の光』として蛇の犠牲者という神の存在へと確立している必要性がある。

図の説明:精神と現実の解離を起こしている

これは、現実と精神の解離を起こしている状態とする。この精神状態だと、人の犠牲者になるのは当たり前。蛇に搾取されるだけの現実——というイメージ。常に足引っ張りされる人生ということ。

精神による闇の意識があるからこそ、人に対しては光のような態度をとり、光のような存在へとなっていく。

これは、精神的な部分では大きな闇を抱えているけれども、だからこそ——の現実的な人間性を自ら理性によって構築してきた人格者とする。

この状態の二人が出会うことにより、お互いの精神における闇が浮き彫りとなるのが『出会い』から『サイレント』とする。

ツインレイのサイレントの開始

ツインレイのサイレントの開始においては、明確な精神と現実の解離を迎えることにある。

この段階におけるツインレイたちの精神は、現実的にとった行動は『相手の為』であり、精神的には『精神の闇を抱えている』状態にあり、精神と現実の行動の一致が成立しない。

つまり、現実の行動と精神が望む行動が一致せず、精神が解離してしまう——ということ。

これが現実と精神の解離であり、光と闇の解離である。

ツインレイたちの心の中には、闇がある。それは紛れもない事実であり、だからこその光を生み出した。それが現実的な人格であり、その人格は行動により示される。

精神のなかにある自分の闇に打ち勝つとき、私たちは現実と精神の解離を明確に起こす。このとき、精神の闇が『具現化される』ことになる。

 

現実的な自分は『光の自分』であり、精神的な自分は『闇の自分』である。このときに二重人格が成立する。ただ、人格交代等は起こらず、精神の自分は精神領域のみの世界にて具現化される。

さて、この『闇の自分』とはどのような自分なのか——。それが神と蛇の違いになる。

 

神となるツインレイたちは『光の現実的に行動してきた人格』となるが、蛇となる存在は、現実も精神も闇でしかないために『闇の精神と現実の統合された人格』となる。

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サイレント期間の闇の刺客とは

サイレント期間における闇の刺客とは、自分自身の精神構造内における『闇』が現実でも表現されている存在である。

ツインレイたちはいかなることがあっても、自分の闇は抑圧する覚悟が決まっているがゆえに、精神が解離している。闇を闇として切り離した。

しかし、蛇という存在は『精神』と『現実』がどちらも闇一色にある。

その行動は闇だったのか、光だったのか——というよりリアリズム的な視点にて解釈される。

図の説明:蛇は現実も精神も闇一色

蛇とは、自分の精神と現実が一体化している。これは現実的な部分に自分の精神が投影されてしまうとも言える。これが『同一化』と呼ばれる現象であり、相手と自分だと認識し、また相手を攻撃するメカニズムとも言える。

そして、色々な蛇がいるけれども、自分も現実的には光なのだ! と蛇が思い始め、犠牲者という神を自身に投影し、模し始めたりもする。こういうやり口? と言えばいいのかな。投影同一視による迷惑行為が始まる。また、同時に憧れと貶しという白黒思想なども介入してくることなどもある。

いわば、闇の刺客と神という犠牲者という光と闇の解離が起きている人たちは、精神領域における闇の一致が生じているからこそ惹き合う縁である。

図の説明:犠牲者という神と蛇の存在の精神は一致する

この一致によって蛇と犠牲者という神は『縁』が生じる。なんなら、神側(ツインレイ)は解離が生じている点、精神的な闇が解離しているからこそ、蛇というシャドウが生じるようになる。

いわば、シャドウという影は、自分自身が光れば光るだけ、精神面に闇が浮き彫りになる。最終的にはその闇を解離させ引き離したからこそ、シャドウが生じる。そのシャドウが『闇の刺客』と呼ばれている存在である。

つまり、闇の刺客が生じるってことは、現実的に自分の闇を克復し、いろんなところで光に変換するように努力をし続けた結果、闇が解離したからこそ現れるということ。

 

だけど、蛇からすれば、社会的な側面からして『光と闇』というほどに格差が生じていることに劣等を感じられるために、ツインレイを貶す、またはツインレイを貶める、またはツインレイを自分だと投影して『同じである』としてくる。(これが引きずりおろすという構造)

人生的に蛇は闇のままだったけれども、ツインレイは闇を光に変換し、社会に還元してきたよっていう違いがある。

蛇は現実的に何もしなかった、恨んでいただけ。ツインレイは現実的に努力した、人を好きになろうと努力した。この違いがある。

最終的にツインレイと闇の刺客の対立によって『闇』に対しての理解を深める必要性がある。

蛇にとっての精神的な闇とは『恨み』や『憎しみ』である。ツインレイにとっての精神的な闇とは『癒し』や『愛』である。

闇の定義が違ってくる。本質的な部分ではどちらも闇を抱えているほどの心の傷がある。その心の傷を恨みにするのか、それとも愛にしたのか。これが現実というものである。

図の説明:心の傷は同じだが、現実的に憎しみの行動をとる蛇と愛や癒しの行動をとるツインレイ

どのような行動をとったのか。どのような発言をしていたのか。それが『憎しみ』なのか。それが『愛』なのか。

どちらも起源は心の傷ではあるが、光と闇という存在の二極に分類されてしまうのである。それは行動——ってこと。それが現実を構築しているとも言える。

ここの葛藤がとてつもなく長く続く。それは自分のなかにある憎しみや恨みを肯定することが出来ないからである。

いわば、蛇とは『現実の闇』の丸のところにある。現実的に自分は闇の行動をとってこなかったのもあって、自分ではない存在として認識される。これを『影』とする。

自分ではないのに自分だと感じられる、これが影。自らのなかに存在している後ろ暗い心であり、私たちが目を向けたいとは思っていない心である。それが『憎しみ』である。憎しみがあったからこそ、私たちは愛ある行動をとってきた。人の為にあろうとしてきたのである。

サイレント期間のシャドウの自己統合

図の説明:サイレント期間中に癒しの過程を経る

ツインレイたちは自分の心の闇に向き合うことになるんだが、その心の闇とは『憎しみ』や『恨み』であり、それは蛇そのものである。闇の刺客である。

しかし、ツインレイたちは自分自身のなかに『愛』や『癒し』という存在を構築している。人に与え続けてきた行動は、自分自身の心をもほぐしていくことに繋がっていく。与えたものはすべて自分に与えられるのである。

それは、自分自身のなかにある憎しみを許し、憎しみを受け入れていく。(このとき、解離がひとつとれ、統合される人格がある。シャドウの統合とする。なとりの場合は「ばかばかしい」とか「茶番だ」とか言っている悪口人格のこと。)

このシャドウを統合していくと、憎しみが癒され、次に心の傷に触れ癒されていく。

心の傷が闇ではなく癒されていくことで、精神が光へと切り替わっていくことになる。

そうすると、パンピーになる。

図の説明:パンピー精神・心の傷がないぼんくらな一般ピープル

心の傷があると、一般的な健常な精神を得ることができない。が、心の傷が癒されると一般的な健常な精神を得られることになる。

 

この経緯からわかることは、元々神となる犠牲者たちも『蛇』だったってこと。だから私は闇の刺客の人と出会ったとき「私はこうなっていた可能性があったのか」というものすごい驚きがあった。なんでそう思ったのか——というと、元々は同じだから。

元々は同じく憎しみと恨みを抱えた人格である蛇だった。

だけれど、それじゃいけないと想い、行動し、自分を変えようとしてきた結果、神と言う犠牲者という人格が成立したのである。そして、光と闇の解離を起こしたのである。

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ツインレイのシャドウの統合の目的

図の説明:過程の違い

ツインレイたちは闇から光あがっていく人たち。つまり、闇の経験があり、その後、闇の中から光を生み出してきた人たち。最後は自らの光のなかから『生まれ』の時点の自分を光のなかから産むことができる。つまり、自分を自分で産み落とす人たち。これが大器晩成かな。

一般人は、最初から愛情のなかで育ち、そのままである。何も変わらないんだけれど、あるとき闇落ちする人もいるかもしれない。わからんのが人生だから。転落人生っていうやつ。たぶん、産まれの愛に甘えて何もせんかった王様タイプだとは思われる。最後は蛇になる。

愛情のなかで育ったのであるならば、その愛で闇を内包することが出来なければならない。

蛇は産まれの時点で蛇。最後も蛇。恨みだけで人生が終わったみたいなタイプかな。

色々な人生があるよね。そのなかでもより良い自分に成ろうと努力していくことが必要。

で、徳ってなんですか? っていうと『いかに光へ変換できるのかの能力』だと思われる。

いかに憎しみや怒りがあったとしても、それを光に変換していけるのか——の能力。そして、人に還元でいるのか——の能力。

一般ピープル的なラインの人たちでも、憎しみや怒りを抱えるときがあるだろう。それにどれだけ耐えられるのか——ってことだな。

つまり、愛と癒しへの変換能力の高さが徳ということ。それは闇の経験からしか得られるものがない。

闇を経験しれなければ、闇から光に変換する機能が備わらない。やったことないことは出来ない。だから、ツインレイの多くは闇落ちして生まれてきている。

だけれど、ツインレイだからこそ、光の人格を現実で育て、光の人格者となり、自らの闇を癒すことができる。そして、自分の闇を癒す能力が徳とみなされ、自分に与えることができるものは人に与えることができる——ということに繋がっていく。

ツインレイと闇の違い『本能の違い』

闇となる地を這いずる蛇とは、そもそも光がひとつもない迷惑な人だとする。その迷惑な人を赦し受け入れ続けるのが聖母とするよ。これもまた、蛇を受容する過程において必要ではあるんだ。

ツインレイとは何か——というと、光の意識と精神の闇が解離することによって生じている。いわば、この現実の精神の解離こそがツインレイを意図するものではないかと思っている。(目的が解脱だとかこの世の輪廻から解脱することならば、ツインレイは解離を起こすことが大前提になる)

で、この闇の意識に溺れないこと。光の人格の意識側が闇の人格をシャドウとして自己のなかに内包することに意味がある。

だけれど、蛇たちは光の人格を闇の人格が自己のなかに内包することで成立している。

光が闇を内包するのか、闇が光を内包するのか。どちらになるのかは『自意識がどれだけ成立しているのか』『理性や知性がどれだけ発達しているのか』の違いになる。

光が闇を内包するとは、主人格が副人格を内包することになるが、闇が光を内包するとは副人格が主人格を内包する——ということでもある。

だからツインレイたちは『光だけ』になるけれど、真逆の蛇たちは『闇だけ』になる。

違いは何か——っていうと理性。ただそれだけ。実は理性の高さの違い。理性的な人間は『光だけ』になるけれど、理性が欠落すると『闇だけ』という理性がない存在になる。いわば、自分をコントロールすることが出来ずに歯止めがきかない人格になる。つまり本能のみ。

その本能が攻撃性になるのが蛇という闇の刺客。ツインレイたちは攻撃性ではなく生きる欲求だけになる。

ツインレイは生きる欲求という闇を内包している存在——ということ。

つまり闇とは『生きようとする生命力』なんだよね。

蛇も本質的には生きようとする生命力なんだけれども、それが『破壊』とか『攻撃』という他者を壊すことにより行われていく。

ツインレイたちは生きる欲求が自らのなかにこみあげていく。