ツインレイの3段階の精神の成長発展(私のツインレイは『超自我』的な存在だった話)

2024年8月27日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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フロイトの思想のなかに『エス』『自我』『超自我』という三つの要素によって精神バランスをとっている——という話である。

私はツインレイの期間で、この三つを再び再形成することになりました。

また、ツインレイのステージ的な見解においても、この三つの段階で、どの段階まで精神を再構築しなおしたのか——がわかります。

図の説明:条件付きの愛の成長過程・恋のカタチ

引用:サイレント期間による条件付きの愛の完成は、あなたが恋愛する条件は何か?を知れること。

こちらの図はそれぞれ『エスの発達』『自我の発達』『超自我の発達』が模されています。

図の説明:ツインレイのステージとフロイトによる精神の構造

エスとは、もともと私たちが生まれ持っている生きる本能です。

その本能をコントロールするのが『自我』です。自我は、私たちの本能をコントロールすることで、人が人らしく生きていくために適応性をもたらします。この段階は中学生レベルで成立するかなと思います。

たいていのツインレイがここまで到達するものだと感じます。

ツインレイは、ツインレイと出会い、傾いている自我を立て直します。自分の欲求や自分の思い通りにならないことなどのすべてを解消する手伝いをすることになります。

そして、この段階において『ツインレイとして完成する』人たちは、お互いがお互いを支配するカタチ(超自我)を構成することで安定を図ります。つまり、相手は自分にとってお父さんという扱いになりますね。

そのお父さんが『超自我』であり、自分自身を抑制する存在であり、また、ツインレイの相手に嫌われたくない心理は、中学生による恋の目覚め的な感じがします。そして、超自我を相手に与えることにより支配的な相関性をとって安定を図ります。

図の説明:ツインレイの相手に超自我による支配と抑制を行っている関係性

これは相関的な関係性をもち、相手を支配する——というカタチになりますが、自分を支配することが出来ません。相手を支配する為に超自我を形成する関係性です。

ゆえにお互いがお互いを支配し合う関係性をここでは構築していきます。

これが『統合的な関係性のツインレイ』です。

こちらが、その相関性が完成した——とも言えますね。こちらは『相手を支配する』とします。

超自我は自我やエスを抑圧させ、それによって人間関係を安定させます。

簡単に言えば「やったらいけないことはやったらいけない。」んです。それがわからないのは問題である——ということ。お相手は超自我的な存在がいなければ、やりたい放題になってしまうってことです。

法律と言う父のもとにさばきましょうって話でもあります。国家は父である——とでもいうのでしょうか。

私は待ちましたよ。私は待つことが出来ますので。ですが、待っても意味がないことを理解したので、待たないことにしました。

これは『超自我の発達』なのだと思います。したらいけないことはしたらいけないと、その場その場で伝えていかなければならない、それがもし警察にお世話になったりするようなことだったとしても、いけないものはいけないのだと伝えていくことが超自我の役割です。

つまり、皆のお父さん的な役割を担います。

これが『統合的なツインレイ』です。相手を支配しますので。

 

では、『結合的な関係性のツインレイ』ですが。

図の説明:結合的なツインレイの超自我

結合する人たちは、自分自身を超自我で抑制し、同時に相手をも超自我で抑制します。

つまり、どんなに嫌なことがあっても、相手と同じ土俵に立ち、相手と同列な扱いとなるような人間になってはならない——ということです。

相手がやっているから自分もやってもいいという思考回路に陥らず、自分が持つ道徳性や倫理に従うことが出来るような状態です。

相手を自制しているだけではなく、自分をも自制します。つまり、特に相手を抑制する必要性がない相手が『ツインレイ』です。

自分を自制しているからこそ、相手に自生してもらう必要性はありません。自分の欲求ぐらい自分で抑制することが出来ます。相手に「禁止」をされずとも、自分で自分に禁止を向けることが出来ます。

私は、どんなに嫌なことがあったとしても、悪口をブログに書くことはありませんし、私の悪口をもし、誰かのブログに書かれ続けたとしても、私はその土俵には乗りません。私は「相手の悪口を書かないことで自己抑制する」んですね。

これが自分を抑制し、支配する超自我意識です。

図の説明:自分を支配し抑制する超自我意識

しかし、この状態になると、自分が自分に課していることは相手にも課す——ということです。私が私を支配している領域を相手にも超自我として働かせることが出来ます。

ただ、個人的に私はあんまり「してはいけないよ」とか、禁止を伝えることが好きではありませんし、支配も好きではありません。

できれば、私は人には「自分らしくあってほしい」とか「私にかまわず、あるがままにあれ」と思っています。そこに「私」という存在を必要とせずともいいんです。私は必要がなくていいと思いますし、私は消えていく存在で構わないと思います。

超自我とは、そういった存在なのかな? と思います。父性とは必要がないことが求められている。

超自我とは「自分が社会に適応するための足かせ」でもあります。社会的なルールや模範がそこにあり、そこに適応するまでの道筋を立ててくれます。

しかし、実はこの超自我ですが「なりたい自分と同一化したとき、不必要になる」ことになります。

もしかしたら、これが『大人になる』ことなのかもしれません。

なりたい自分がそこにあり、なりたい自分になろうとしている私たちは、そうではない自分を排除する意識を超自我とするのかもしれません。

超自我は、ツインレイたちのなかにある「なりたい自分になる」ための手助けをしています。そして、その力が「ツインレイという自分と相手」の2つから注がれていきます。つまり、力量が二倍になりながら、私たちが私たちになるために援助が存在しています。

私はなりたい自分になれたのだと思います。そして、やりたいことをやり遂げた。そして、そのとき『超自我の成立』をもしました。そして『超自我の喪失』をもします。

私は超自我との一体化を「ツインレイの結合」と感じました。彼が彼なりの発達させた超自我を私のなかに同一化させました。

そして、同時に他人に対してもたらされる『超自我』が成立しました。

私にはもう超自我は必要がありません。生きているだけで私は何かしらの法律的なルールや道徳性を失っているわけではありません。なにか自分に課さなければ、私が人たらしめている生き方を放棄することはありません。

だからこそ、私は超自我を自分のなかに統合していくことが出来ます。

しかし、結合とするのは、他人が同じように『超自我を保てているのかは別』なんです。だからこそ、私はときおり「超自我」を持って、相手を支配する必要性があります。

ただ、私は女性です。やっぱりあんまり叱るのは得意ではありませんし、できれば、自分らしく社会に適応していってほしいと思いますし、私は不必要な存在でありたいと思います。

超自我とは、お父さんとは、いつか自分という抑制を必要とせず、ひとりで自分を自分で律して生きていくことができる存在になっていってほしいという存在なのだと思います。

そのとき、私たちはツインレイの相手を必要としません。

ツインレイの相手がもつ超自我を不必要とし、超自我を内包し、ツインレイの相手を支配せずにいられます。

あなたがあなたで、ちゃんとやっていることを知っていますので、私たちはツインレイの相手を支配せずとも信頼を置くことが出来ます。

しかし、あなたがあなたでちゃんとやれない不安を抱えているとき、私たちはツインレイの相手を支配したくなります。そして、それは自分をも支配することが出来ていないとも言えます。

相手を支配したいとき、あなたは自分を支配しなければなりません。その支配を自分に向け、自立させていくことがツインレイには求められているのではないか——と思います。

 

私は何度かネットストーカーの件で「親の顔に泥塗っている」と書きました。

超自我とは『父』を意味します。つまり、自分自身が自分を抑制することが出来ていないとは、父が父として不出来であったとの証明でしかありません。

父が自分に「していいこと」「しては悪いこと」の抑制を教えることが出来なった——ということです。

そして『自我』は母なのかな? と思います。自分のエスをコントロールすることです。エスとは本能です。自分の欲求をコントロールすることが出来ないのは、母が不出来であったとの証明でしかない。

親の顔に泥を塗ってはいけないと私は言葉にしますが、これは私が「私自身がしっかりしていることは、親が立派であったことの証明だ」と思っているからです。

すべては自分です。すべては自分のなかに凝縮されているものなんです。

そして、大人になったら、もう「親のせい」ではありません。

私も実際、長い期間を精神病と戦いました。原因ははっきり言って育ちにあります。16歳の時点で薬漬けですから。この時点で親の責任は存在していると思います。

しかし、私は親のせいにはしませんでした。大人になってからの責任は自分にあると思いました。

子供のうちは親が頭を下げればいいですが、大人になったら、今度は自分の失敗は『自分』がなんとかしなければなりません。

このときの私たちは「親ではなく自分で自分の責任をとること」になります。

そして、自分の責任を「親が頭を下げること」は、これ以上にない屈辱でもあります。恥ずかしいことなんですよ。自分の責任を親が頭を下げるとき、自分が自分の責任をとれていません。

親も恥ずかしいんです。だって、自分が親としてまともに子育てが出来なかったんですから。それが親としての恥なんです。だから皆、親として子供に向き合おうと努力をします。

だから、アダルトチルドレンの方々も多いかとは思いますが、絶対に親のせいにするなよ。アダルトチルドレンだとしても『アダルト』であることには違いないんです。大人になったんだったら、親のせいではない、自分の責任が絶対的にあるってこと。

親だけのせいにしている限り、発展はありません。だって親のせいではないんです、自分が自分で行動した結果に過ぎません。

だから、考えるんですよ。親のせいにしないために。自分で自分の責任をとるために。

私たちは考えなければならないんです。

どうやって自分で自分の責任をとって人生を生きていくのかについてを考えていかなければならない。

それが『人』だからです。何度も何度もトライアンドエラーを繰り返しながら、自分がどうあるべきか——についてを模索していく必要性がある。

それは「自分が自分で、自分の人生を生きる為」です。そのために、私たちは考えなければならないんです。

人のせいにして何一ついいことはありません。自分の人生、自分の行動、自分の発言。その責任は『自分』にあります。親にそうしろって言われて発言しているわけじゃないと思います。すべては自己責任なんですよ。

その責任を背負うことが出来ないのであれば、それは人じゃない。それを私は「人でなし」と呼びます。人じゃないんですよ、そこに自分が行っている行動を自分がやったわけじゃないっていうのであれば、それは誰がやったの? ってことです。誰がそう言ってて、誰が何をしているの?

幽霊でしょうか。実体がわかりません。ですので、私はそれを『人でなし』と呼んでいます。

そこに心はありません。だから、人でなしなんです。

超自我は「心」をもたらします。

人間関係のなかで相手を想う心を育てることが超自我です。道徳性であり、倫理観です。それが社会のルールに繋がっているのが、この日本です。そういった安定した国家なんですよ、日本は。

この超自我が、どのベクトルにまで到達しているのかもまた違うのかなと思います。

 

そして、超自我が自分のなかで不必要となっていくこと。それは父として悲しいです。やっぱり消えるのは悲しい。

しかし、消えるわけではなく、一体化していくことにあります。

超自我とは「彼」のことです。

超自我とは、自明性です。当たり前というルールにあります。それは彼です。

彼は「父」でした。私にとって、私に多くのルールを課しました。

何をしたらいけないのかの抑制です。

彼は、どんなにひどい悪口をいわれようが、何をされようが、何もしませんでした。やりかえすことすらしませんでした。

これが彼の道徳性にであり、超自我です。そして、彼のなかにある『ルール』です。

ツインレイは私にとって超自我であり、本来ならばこうあるべきだ——という倫理観を持っているものであり。それを私は自己のなかに一体化させていきました。

だから、私は「彼にとっての当たり前」を吸収したとも言えます。

どんなに嫌いな相手であろうが、彼は悪口は決して言いませんでした。彼のルールに反するからです。だから私もそれをやらない。彼の倫理を守るために。

そしてそれが『彼の心』だと思います。その心を受け取るときまでに、私は彼のルールを守ります。超自我として彼が持つルールを私は守ることしか出来ません。

自分自身を超自我として、彼を抑圧とし、支配を受け入れていきます。

その後、その支配を受け取り切ったとき、私は他人にとっての超自我となり、他者を抑制させます。それは「悪いこと」だからです。

簡単に言えば、自分がやらないが出来たならば、次に他人にもやるんじゃないっていう支配が出来るって感じでしょうか。

 

ツインレイの相手は『エスをコントロールする自我』の相手が『地上のツインレイ』です。恋人です。恋をしますので嫌われたくありません。

しかし、私たちは好きになった経験と好かれた経験にすがってはなりません。

人に自分のエスをコントロールしてもらわなければならない存在は必要ありません。自分で実行できます。不必要な人材です。

『自我を抑制する超自我』の相手が『楽園のツインレイ』です。お父さんです。支配されますので恐怖を感じますが、愛を知り、愛に依存したくなります。

しかし、私たちは愛した経験と愛された経験にすがってはなりません。

自分を社会的ルールや道徳性のために支配してもらわなければならない存在は必要がありません。自分で実行できます。不必要な人材です。

 

私たちは、そうやって再び、育てなおしをされているにすぎません。

これが世界の恩恵と呼ばれるものなのであれば、きっとそうなのでしょう。しかし、それが受け取れるのか、全うできるのかは『人間性』に依存していると思います。