ツインレイの統合とツインレイの結合の違い
どうやらツインレイの統合とツインレイの結合の違いについてを書いておこうかなと思いました。
個人的なこのステージの進んでいく展開においてを認識している限りです。
今回のツインレイによる統合段階と結合段階による分類について。
統合するツインレイは『自己分離と自己喪失』によるふたつにひとつのツインレイ。
次に、自己分離と自己喪失を抜けているツインレイは『無条件の愛』による善と悪の全受容のツインレイ。
ここまではツインレイの幻想に入り込んでいるツインレイたち。つまり、ツインレイというアイデンティティを手放すことができない段階とも言えるんじゃないかなと思われる。
その後、ツインレイのサイレント空間(ツインレイが幻想的な空間により成立していることを理解する)を抜けて出していく人たちがいて、その人たちは『条件付きの愛』によるツインレイたちだと思われる。
ツインレイの統合しツインレイと結ばれるケース『自己分離と自己喪失』
まず、ツインレイの統合についてです。
ツインレイの統合とは、
自己分離者は、自己喪失者に自分のもうひとつの側面を見つける。もうひとりの喪失者は認識されてない自己に自分のアイデンティティーを見つけ、最終的には自己分離者を乗っ取るようになる。
自己分離者は統合へと向かう経緯で自己の獲得に向かわなければならないし、自己喪失者は自己分離者を乗っ取らなければならない戦争が巻き起こる。
この自己分離者と自己喪失者の相性は最高に良くて、ふたりでひとつ——ということ。善と悪で、ふたりでひとつ。
ちょっとゾッとするよね。ツインレイは「ふたりでひとつ」だから。
と、書かれている通りなのだが、かなりひどい書き方だなと思うが、私の個人的な視点においては、事実だなと実感しているので、その事実にて書いておきたい。
ツインレイの統合とは『ふたつでひとつ』という視点において、支配と従属というような関係性を現実的に模すことにある。
ゆえに、ツインレイの片方が『支配』とし、もう片方が『従属』という関係性を持っていると考えている。
これがツインレイの統合である。
この状態だが、ツインレイの結合にまで至る人たちにとっては『サイレント期間の開始』のタイミングで統合状態になっていると思われる。
つまり、サイレントの開始の時点で統合しているとは、関係性が支配と従属的な関係性となってしまったがゆえに、ツインレイのふたりが「支配したくない」って状態になって『仕切り直し』になるということ。
この段階で『無条件の愛』が成立し無かった場合、ツインレイのふたりはツインレイの統合の状態になるかと思われる。
ツインレイの統合段階の人たちは『ツインレイから抜け出す』ことが出来ていない状態となります。
本来、ツインレイは『空間であり幻想である』という、ひとつの洗脳的な空間のことを意味している故に、このツインレイそのものに対して『現実である』と捉えているとき、ツインレイのふたりは『ツインレイの再会後もツインレイである』と語るようになるのではないかと考えている。
なぜならば、ツインレイを現実として捉えてしまうから。
この人たちの特徴だが、ツインレイの統合は「ツインレイのふたりが出会いなおしている段階で統合をする」ような気がしている。そして、そのふたりはそれぞれ統合前に他の異性とお付き合いしている状態なのかな? と思う。
あとスピリチュアル的なサインとかも、結構尊ぶ人たちなのかな? と思う。
ツインレイの再会後、他に出会った異性と結ばれるケース『無条件の愛と言う肯定』
ツインレイの再会後、ツインレイとは結ばれずに他の異性と結ばれるケースがある。
こっちは、支配と従属を抜けているツインレイたちでもあると思われる。つまり『支配すること』ができる。無条件の愛っていう段階にあり、無条件の信頼と無条件の愛を交換することができる。
ゆえに、無条件に信頼でき、無条件に相手を愛することができるツインレイたち。
しかし、そこに『悪まで受容する』など、本来ならば、許してはならないものまで許してしまっている状態になっているツインレイたちともいえる。
そして、この段階のツインレイたちは、相手が悪いことをしていても愛して受け入れている——みたいな状態になっているかなと思っている。
簡単にいえば「すべてを丸ごと受け入れられる」状態なので、自分がツインレイであることを受け入れているみたいな状態でもある。簡単に言えば、自己否定が出来ない感じがする。
否定に弱いとも言える。自分の自身のなかに否定が育っていないから、単純に『肯定する』と言うことしか出来ていないとも言える。
これが『無条件の愛』である。
そのすべてを肯定することが無条件の愛であり、そのなかにある自分自身が『それは社会的に間違っている』と思う部分を否定していかなければ、人は社会性や自明性を失ってしまう。
この段階のツインレイたちは『ツインレイの幻想』のなかに留まる。
大きな問題として、ツインレイたちが「自分自身がこのモラトリアムから抜け出せない」という問題やツインレイというアイデンティティを放棄できないことや、自分自身を明確に樹立させることがやりきれていないとき、この『再会した異性をツインレイとして認識する』みたいなことが起きるみたいである。
ちなみに個人的にも「なんかツインレイっぽいな!」とか「自分っぽいな!」とは感じるほどには似ている異性と遭遇するし、「なんでそれ知ってんの?」みたいな、すごく不思議な異性と出会いますが、突き詰めてみてみると「なるほど、私が投影しているんですね。」ってことと「なるほど、これが課題ですね。」といったところがみえてくる。
片方は『王様タイプ』で、自己主張的なものが強く「我が強し!」みたいな感じだと思われる。そして、もう片方は『女神さまタイプ』で、相手が自己主張するものを全体的に受容すると思われる。
ツインレイの結合を起こすケース『条件付きの愛という否定』
精神が発達していく経緯で「あなたのすべてを愛しています」という段階だけでは、相手はただの王様となる。
重要なのは否定である。無条件の愛は『肯定』になるんだが、条件付きの愛は『否定』である。サイレント期間に突入するとき『無条件で愛し』次に『条件付きで愛せない』という状態に陥る。
ゆえに、ツインレイの結合は『条件付きの愛』により生じさせることになる。
条件付きの愛とは、あなたがあなたらしくない部分を愛することは出来ないことであり、人間関係を円滑に回すために重要な現実性を持たせることでもある。
つまり、このツインレイの相手へ条件付きの愛を持たせているとき、私たちは『現実化』を必要とする。
その現実化とは『ツインレイは幻想である』『ツインレイのアイデンティティには意味がない』という視点である。
そのとき、私たちはスピリチュアル的な視点を卒業し、より現実的な人生を歩むように心がけるようになる。
このときの私たちの感覚は『自分がツインレイである』という肯定と『自分はツインレイではない』という否定のなかにあり、否定と肯定による葛藤により、本質を見定めていこうとする感覚がある。
究極の自己否定と、ツインレイ思想への否定により、現実的な人生を歩み始めることにより『ツインレイの結合』が始まる。
発生条件として、
- ツインレイの統合(再会)をしないと決断する
- ツインレイと決別の決意
- 新しい異性に向き合う
- 現実をみる、今に生きようとする
- 自己愛という出会いを受け入れる
- 投影を終わらせる
みたいなものかと思います。
この段階で、ツインレイではない異性との出会いがあるが、その異性に向き合う必要性がある。
その異性は前段階における『ツインレイの再会後、他に出会った異性と結ばれるケース『無条件の愛と言う肯定』』を克復していく必要性がある。
その異性に対して「無条件の愛という肯定」ではなく「条件付きの愛による否定」を提供できるかどうか——がキーポイントのようである。
面白いことに、この段階では「ツインレイを全否定」するようにもなるが、同時に『条件付きの愛』により、ツインレイではない異性を「条件付きの愛による否定」をする。それは、ツインレイかどうかという否定ではない。
前回のツインレイ後に出会った後の人がツインレイだったケースの場合、条件付きの愛が実行されてしまい、二人目もツインレイでなくては愛せないというロジックにハマる。無条件の愛と言いながらも、条件付きの愛になってしまう。
しかし、ツインレイの幻想世界を抜け出していると、無条件の愛によりツインレイを受容しているが為に、相手がツインレイではなくても愛している状態とも言えるゆえ、次にツインレイではない人がやってきたとしても「愛せる」のである。
ここで「無条件の愛」を実証することができる。
ツインレイではない人をも愛せるからこそ、このとき『無条件の愛』による実行が果たせている状態になる。
そして、次に、ツインレイではない異性に対して「条件付きの愛」を実行することになるが、その内容はツインレイである条件を突き付けているわけではない。色々な理由はあると思うが、とにもかくにも、個人的には「最低限の人間性を放棄してはならないよ」といったところだろうか。
しかし、その『条件付きの愛』についてはツインレイが指針となっている。
この段階で「ツインレイの結合」が成立する。
つまりなんだが、条件付きの愛は『ツインレイ』という方程式が成立するようになる。しかし、そのツインレイとは「ただの人だよ」って証明ができる。
ツインレイの結合段階では「ツインレイの相手=条件」という方程式が成立する。
ツインレイ⇒
ツインレイという肩書は不必要(無条件の愛)⇒
ツインレイではない異性を無条件に受け入れる⇒
ツインレイではない異性を条件付きの愛で否定する⇒
条件の内容はツインレイのこと
というカタチだろうか。
つまり、ツインレイの結合に至るまでは、
- ツインレイではない異性を無条件に受容する
- ツインレイではない異性を条件付きの愛で否定する
という経緯が必要になる。
この経緯は、
ツインレイーツインレイ=彼くん
っていう方程式を成立させようとしている。最終的には「条件とは彼のこと」として、彼こそが我の自明性である——として定義される。面白いことに、自分自身の異性の基準が「彼」となる。
その彼による価値基準により異性を見るからこそ、比較でもあるんだが、比較とも言えない。
「そうあるべきことはそうあるべき」というルールが、彼になっている。しかし、それはツインレイではない、彼そのものが我の中にある『基準という当たり前』として定義されている。
ツインレイの結合段階では「彼と言う存在が当たり前」という自明性となる。面白いなと思います。
ツインレイの統合と結合の違い
ツインレイの統合と結合の違いだが、個人的には『サイレント空間(ツインレイの空間)』を閉じれるか、閉じれないのか——の違いではないかと思っている。
ツインレイの統合段階では『投影』が常々にあり、その投影では、自分自身と相手を投影することにより「ツインレイ」として認識するので、常にシャドウ的な出会いが連続的に起きていく。
そのシャドウとは「自分の悪人格」と「自分とは違う世界線を生きている人」として捉え、シャドウとは投影により生じている。
この投影が起こし続けていく段階が「ツインレイの幻想世界」とも呼べる世界観である。
この幻想世界を抜け出せるのか、それとも、幻想世界を抜け出せないのかが一線を画すのではないか? と思われる。
自分はツインレイであるという肯定を統合は持っているが、自分はツインレイではないという否定を結合は持っている。
否定により『条件付きの愛=相手』という方程式をもたらし、それが『現実性・当たり前・自明性』というカタチへ着地することができる。
つまり、ツインレイの相手は、この世には存在してないが、大好きだった異性はこの世に存在している現実がある——という証明が成立できる。ゆえに、ツインレイという概念は不必要である——という証明ができるということだ。