ツインレイの視点のベクトルの違いは魂年齢にあるのか?

2024年8月16日

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ツインレイの方々っていろんな人がいる。当たり前のことではあるんだが、決まって皆「愛」を目標にしていることには違いなく、ほとんどのツインレイがアダルトチルドレンの要素を抱えているのではないか? と思う。

ただ、ここでアダルトチルドレンではない気質を持っていない人はいないと思われる。幼少期のトラウマを抱えず、幼少期に傷ついたがゆえに思い込みを抱えていない人はどこにもいない。

しかし、この社会に適応している人たちと社会に適応することが息苦しい人たちという二分を持って考えてみると、社会に適応することが苦しい人たちがツインレイではないか? と考えられる。

これは社会で働くことができるかどうかの話ではない、社会で働くことに苦しみを覚えるかどうか——である。精神的に社会適応が苦しいことがアダルトチルドレンとされ、適応が苦しいからこそ問題視される。

この時点でようやく人は「自分はアダルトチルドレンなのではないか」と考えるようになるのだが、もし、どんなにインナーチャイルドが傷ついていたとしても、社会で生きることに苦しみを感じていなければ、それはそれで問題ではないと判断する。

ベクトル的にも、すべての人がアダルトチルドレン要素を持っているけれども、それを『問題する』『問題視しない』という二分類に分類されるということだ。

これが性格による傾向性とも言えるし、魂年齢では精神的な分野で多くの苦しみを実感することの方が年齢層が高いとして判断するきらいがある。

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この時点で、ツインレイとは「アダルトチルドレン要素を持っていると自認している」「社会に適応することが苦しいことに気づいている」という自己の内省性が高いことにより、ツインレイとして定義することができる。

ツインレイのカップリングは「アダルトチルドレンを自認している・していない」、「社会への適応が苦しいことに気づいている・気づいていない」という「わかっている」と「わかっていない」の2種類に分類されているような気がしている。

これが二元論的な視点に陥り、ふたりはサイレント期間へと突入することになるのではないか? と思っている。

そして、このふたつの意識が統合(または結合)されたとき、私たちの意識はアダルトチルドレンから自分自身の魂年齢に適応するような自分自身となり、社会への適応が自分らしくすることができるようになるのではないのだろうか。

 

魂年齢についてを過去に一度書いている。

私はツインレイとは「自分の魂年齢に見合う人生を送り始めること」に繋がっていて、自分の魂年齢に見合う人生を送れば送るだけ、その人生は魂年齢に見合う幸福を得ることが出来るようになるのではないか? と思っている。

たとえば、お金持ちになる物質的豊かさをもたらす段階が魂の青年期にあるのであれば、彼らは「お金持ちになることが魂年齢に見合う人生」である。

しかし、成熟期の魂たちにとっては物質的な豊かさを求めることが幸福と言うわけではない。成熟期の魂は「精神的な豊かさを得ることが魂年齢に見合う人生」となる。

明確に、そもそも豊かさの定義が違う。しかし、成熟期の魂が青年期の魂として擬態しているとき、問題が生じる。魂が本当に欲している豊かさを手に入れることができないためだ。

実はツインレイ間で、自分の魂年齢を自覚し、自分の人生を魂年齢に見合うようなカタチとして話を進めるだけで、スムーズに進展していくことになる。

たとえば、青年期の魂にとって哲学はまだ早い(ぼんやりと「なるほど!」という理解で、本当の意味で理解することはまだ早いと思われる)けれど、成熟期の魂にとって哲学はとても面白いものとして捉えられる。もはや老年期に入ってしまえば、魂たちは哲学を樹立し始めようと奮闘する。そのためには成熟期の時期をしっかりと根付かせた人生を送らなければ、そもそも老年期の魂としての哲学は樹立されない。

自分たち自身の魂年齢に見合うだけの人生を送るための前座のような人生がそこには存在しているとも言える。

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さて、ツインレイたちも、それぞれが出会い「自分の魂年齢」に見合う人生を送り始めようとしている。

これは使命に通じるものがあるのではないか? と思っている。

使命とは自分の魂に見合う人生を生きることであり、自分の人生を生きることである。それも「楽しく生きること」だ。

人生とは軽やかなるものであり、苦しみのなかに存在しているものではない。しかし、もし苦しいと思うものがあるのであれば、それは自分が何をなしたいのか? の基盤となるために必要な苦しみかもしれないし、もしくは不必要な苦しみかもしれない。

正直なところ、苦しみを手放せば万々歳! というわけでもないと思う。魂レベルがあがればあがるほどに「苦しみを経験し、自分で何とかせよ」という課題もふって掛かってくる。(菩薩さんとかも、苦しみ抜いて人の苦しみに寄り添うというカタチをとっているから、自分の苦しみがあるが故の慈悲があってもいいんじゃないかとは思う。つっても、慈悲の定義もなかなか魂レベル的に青年期の魂は支配と捉えるから、意味が違ってくる)

つまりなんだが、魂レベルによって理解が異なることがまずの問題に上げられる。

単純に「自分は無条件の愛を持っています」と言葉にしていたとして、その行動そのもののなかに無条件の愛ではなく、条件付きの愛を実行している場合もあるって話。その理解を当事者はなかなか難しく、支配者は自分が支配者だとは理解しないという盲点がある。

つまり、条件付きの愛を実行しているけれど、自分は無条件の愛である! という状態の人たちは青年期以下の魂として認識するわけである。

だけれど、条件付きの愛を終わらせ、無条件の愛を実行することが出来たとき、私たちは「条件付きの愛を無条件に愛する」ようになる。

無条件の愛は、条件付きの愛の実行をしている人たちをも否定せずに受け入れることになるから、特に条件付きの愛が悪いという考え方がなくなっていくのではないか? と感じている。

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無条件の愛とは「見返りのない愛」とかも言えるんだろうけれど、個人的には「そのままでいい」ことを受け入れていく姿勢にあるのではないだろうか。

つまり、私自身に「何か問題がある」と感じたとしても「それでいいじゃない」と受け入れることである。

ほかにも「嫌われている」と感じたとしたとしても「それでいいじゃない」と受け入れる。

人が堕落していったとしても「それでいいじゃない」と思う。

人がもし苦しみを抱えていたとしても「それでいいじゃない」と感じる。

無条件の愛とは、その場その場にあるシーンにおいて「当人が問題視していないのであればそれでいい」のであり、同時に「当人が問題視していたとしても、特に問題はない」として認識する強さでもあるような気がしている。

つまり、無条件の愛とは「あるがままの相手の状態を受け入れること」であり、時に、条件付きの愛はあるがままの相手の状態を自分自身の善悪による審判にかけて「悪いこと」と感じたとき、私たち自身が大いなる慈悲をかけたとき、それはもはや支配に近しい状態になる。

悪いという自分自身の視点を相手に押し付けるようになるからだ。

ツインレイたちの多くも、この「自分の視点は間違えていた」というシーンに何度も見舞われながらも、自分を発展させていくのではないか? と思っている。

自分の視点は間違えていたし、自分の当たり前は間違えていると理解する。

ツインレイたちはツインレイのふたりで『真逆』だと認識するけれど、この真逆であるがゆえに自分にとっては相手と対立するような視点の違いを齎し、対立が生じる。

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しかし、本来、ツインレイとは味方同士である。人類皆兄弟ぐらいの感覚をツインレイたちは持っているわけなんだが、どうにも隣人が敵に視える理由は、自分自身の生い立ちにあるとして捉える。

魂年齢の話に戻すが、成熟期の魂以後のツインレイたちは「精神性」という分野が生じる。

正直なところ、青年期の魂たちにとって課題は「物質的な豊かさ」にあるために、精神性と言う分野はあんまりよくわかっていないと思うからこそ、ツインレイのふたりは幸せだけれどもなんか違う気がする、なんか苦しい時がある、なんでか逃げたい、なんでか避けたい、なんでか『大好きな人なのに・・・・・・』という自分の精神と現実のギャップを認識するのではないか? と思っている。

青年期の魂たちは、未だにインナーチャイルドが癒しきれていなかったとしても、結ばれることができる。

だけれど、このような「大好きな人なのにどうしてかある瞬間において苦しみが生じる」だなんて人たちは成熟期にさしかかろうとしているのに、青年期にとどまってしまった人たちなのではないか? と思っている。

単純に成熟期の魂へ青年期から移行することは、すべてを丸投げして、すべてをどぶに捨てることを受け入れた先にしか到達することができない。

人の成長過程においても、大人になるとは自意識みたいなものがある程度の抑制が出来ていなければ社会性は見込めない。

同じように魂レベルでも「自分の魂には価値がない」という理解が必要と言うことだ。

だけれど、魂レベルで自分の価値がないことを理解していくことは、ものすごい深い絶望を感じることに通じる。

「ワンネス」は絶望だと感じている。「あなたにはアイデンティティがありません」という状態がワンネスであり、アイデンティティの拡散状態がワンネスである。

つまり、自分が自分ではなく、自分は存在すらしていないというワンネス的感覚を青年期の魂は受け入れなければならない。

自分の人生には価値もなければ、意味もない。生きていることにすら自分の魂の代わりはどこにでもいるってこと。だってワンネス感覚があるってことは隣人の魂と『同じ』ということ。

魂にアイデンティティなど存在しておらず、自分の使命はこれだ! みたいなものすら何もない。その使命すら自分の替えが誰にだって出来るんだっていう事実。

究極の『アイデンティティの喪失』に向き合わなければならないんだが、そもそもこの世でアイデンティティが成立している状態では魂ベクトルのアイデンティティの喪失を今生で迎えることは出来ない。

冒頭に戻るが、アダルトチルドレンのほとんどが成熟期の魂ではないかと思っている。成熟期の魂はアイデンティティを確立しきれないからこそ、成熟期へ向かう為の青年期の状態なのだと思う。

アダルトチルドレンは成熟期という自己喪失的感覚を絶望と捉え、その絶望でさえも「愛だ!」みたいなよくわからない視点にまで到達するとき、私たちは成熟期の魂として認識できるのではないか? と思っている。

アダルトチルドレン=ワンネス感覚にとても近いということ。

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アダルトチルドレンが悪いというわけではなくて、ワンネス感覚に近い魂の人生を送るとしたらアダルトチルドレンになると思う。

だけれど、アダルトチルドレンが魂レベルで「ワンネスへの拒絶」があるとき、アダルトチルドレンも社会への適応性を失うような気がしている。

 

つまり、アダルトチルドレンが悪とも言えないし、毒親が悪とも言えない。

結局のところ、何が悪いのかがさっぱりわからなくなってきてしまうのが魂ベクトルの視点を獲得していくことなのだと思う。

 

ツインレイたちの多くが「無条件の愛」を目指しているのかもしれないんだが、もしかしたら、それは「条件付きの愛を無条件の愛で受け入れること」によって無条件の愛が完成するかもしれないよって話でもある。

つまり、青年期時代は常に条件付きの愛にさらされ、私たちはアイデンティティをワンネスへと近づける作業をしている。しかし、ワンネスへの拒絶があると社会への苦しみが生まれる。

理由は『条件付きの愛によりもたらされるワンネスを受け入れられていないから』と結論が出てくる。

でもそもそも、社会で生きてて苦しいことにすら気づいていない人たちもいるけれど、苦しいことにすら気づかないからこそやっていけているベクトルの人たちもいる。その人たちに「ワンネスを受け入れろ」とは言わないし、言えない。

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条件を付けて愛されてきたことにも、ひとつの感謝が芽生えてくる。条件があったからこそ、私たちはあなたとひとつになることを知った。

魂年齢が成熟期にあがってくると「条件付きの愛の良さ」を知ることも出来る。

条件付きの愛しか知らないのであれば、そうやって愛するしかない。相手を苦しめていると知るのはもう少し後になるかもしれないが、条件付きの愛も「愛」であることには違いなく、支配による愛のあとにしか無条件の愛を理解することは出来ない。

青年期の魂が支配による愛という条件付きの愛を「愛ではない」と否定しながらも条件付きの愛を実行するように。そして、その姿をまた成熟期や老年期の魂は、それを「それもひとつの愛だよ」と知っていてくれる安心感のなかでこの世は成り立っている。

また、個人的に成熟期以後の魂なんだろうなと自分を認識しているんだが、これ、人間ベクトルでみれば成熟期以後と判断できる魂かもしれないんだが、神などを含めた宇宙ベクトルで私の魂を判断すると5歳~7歳ぐらいの魂ではないかな? と思っている。

性自認が魂で出来ましたっていうベクトルかな・・・・。